「エンジンを取ったらどうだ」。鈴木修はそう装備を削り、47万円の一台で危機の市場を救った。 大手が見向きもしなかった、当時わずか年4万台という新興国の市場にも、同じ発想で賭けている。 その賭けが、マルチ・スズキをインド最大級のブランドに育てた。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上はほぼ2倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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投資家目線のポイント
スズキの利益の大きな部分は、インド事業から生まれています。インドの景気や規制、通貨の動きが、スズキ全体の業績に直結しやすい構造だという点は押さえておきたいところです。
スズキの強みは軽自動車という日本独自の規格に支えられています。税制や規格そのものが見直された場合、この強みの前提が変わりうる点は、頭の片隅に置いておくとよさそうです。
50人から100人へ——見えぬ需要に賭けた転業
鈴木道雄が興した鈴木式織機製作所は、木製織機やサロン織機の品質で評価を高め、1913年には職工を50人規模に増やし、その後まもなく従業員100人を超える規模まで成長していました。1929年にはサロン織機を発明し、翌年には東南アジアへの輸出も始めています。
ですが戦後、朝鮮戦争特需が終わると綿紡績業とともに織機市場そのものが縮み始めました。鈴木道雄は原動機付自転車「パワーフリー号」の製造に活路を求め、社名を鈴木自動車工業へと改めます。
順調に育ててきた織機事業を、まだ需要が読めない二輪の分野に切り替える判断でした。本業が縮む前に、業態そのものを変える。この判断が、後のスズキの生存戦略の原型になりました。
先行きを見ずに——道半ばで託されたバトン
新しい商品を世に送り出した直後、経営のトップ交代が重なりました。まだ売れるかどうかも分からない段階で、創業からの経営者は社長の座を退いています。
行き先の分からない事業のバトンを受け取ったのは、婿養子の鈴木俊三でした。土俵の上で、次の経営者が新しい勝ち方を見つけることになります。
「エンジンを取ったらどうだ」——値切り倒した軽市場
鈴木道雄の娘婿にあたる鈴木修は、社長就任後まもなく軽商用車「アルト」の開発を主導しました。「エンジンを取ったらどうだ」というほどの徹底したコスト削減で、既存の軽自動車より2割以上安い価格を実現しています。
プレジデント誌は当時、「アルトのヒットの理由はなにか。その最大のものは『47万円』という値段の安さである」と評しました。大手メーカーの多くが軽自動車から距離を置くなか、装備を削って価格を落とす「引き算の設計」を武器に、主婦層の二台目需要を掘り起こしています。
この一台がなければ、日本の軽自動車という商品カテゴリー自体が先細っていたかもしれません。鈴木修は後年、規格の見直しが浮上するたびに先頭に立って軽自動車を守り続けました。
20年かけて握った——静かな合弁の主導権
1982年、スズキはインド政府との間で四輪車の合弁生産について基本合意しました。相手は国営企業のマルチ・ウドヨグ社で、経営の主導権はインド側にありました。
インドでの生産が軌道に乗ると、スズキは少しずつ出資を積み増していきます。2002年、合弁から20年をかけて、マルチ社の株式の過半数を取得し、ようやく子会社として経営の主導権を握りました。
国営企業との合弁から出発し、20年かけて主導権を握る。焦らず時間をかけるやり方が、その後のインド事業を支える型になっています。
自ら幕を引いた——27年続いたGM提携
スズキと米GMは1981年から、27年にわたり技術協力などで補完関係を築いてきました。ですが2000年代、GM本体の経営が北米で悪化していきます。GMは保有するスズキ株式を段階的に売り、残る株式全てをスズキ自身が買い戻しました。
買い戻しの資金およそ224億円は、全額スズキの手元資金で賄われています。借り入れに頼らず自己資金で決着をつけたところに、独立系メーカーとしてのスズキのこだわりが表れています。
その数か月後、GMは経営破綻して連邦破産法の適用を申請しました。資本関係の整理を一足先に終えていたスズキは、その混乱と距離を置くことができています。
契約解除を通告——スズキが挑んだ法廷闘争
独フォルクスワーゲンとの提携は、早々に対立に転じました。経営の独立性を重んじるスズキと、グループ管理を徹底するフォルクスワーゲン。スズキは自ら契約解除を通告し、株式の買い戻しを求めています。
争いは国際商業会議所の仲裁裁判所に持ち込まれ、3年を超える審理が続きました。仲裁廷はスズキの主張を認め、フォルクスワーゲンが持つスズキ株式の全面売却を命じています。日本経済新聞の報道によれば、対象になった株式の時価総額株価に発行済み株式数をかけた金額。企業の大きさを市場の評価額で示す数値。はおよそ4,600億円規模にのぼりました。
GMに続いて、スズキはここでも同じ教訓を刻みました。大資本と組んでも、経営の独立性は自分で守り抜くしかないというものです。
独自ルールで測り続けた——214万台という代償
2016年、スズキは国土交通省が定める「惰行法」という走行抵抗の測定ルールを守らず、独自に積み上げた数値を申請していたことを公表しました。対象は、生産を終えた車種も含めて、214万台という大きな規模に及んでいます。
スズキ自身の調査によれば、この扱いは新型車の申請時に始まり、以後の車種にも踏襲されていました。走行抵抗の申請値を決める承認手続きが社内で整っておらず、チェックする体制もなかったことが背景にあると、スズキは説明しています。
一方で、対象車を惰行法で改めて測定したところ、カタログ表記の燃費値はいずれも上回っていたとも報告されました。ユーザーに不利益を与えない不正、という奇妙な結果が残っています。
隠蔽は管理職まで及んだ——完成検査で払った代償
2018年、新車を出荷する前の完成検査で不適切な取り扱いがあったことが明らかになりました。無資格の検査担当者が単独で検査していた実態が判明し、こうした慣行は長年にわたって続いていたと報じられています。
書類の差し替えによる隠蔽も、現場の管理職クラスまで認識していたといいます。対象となった車は国内向け・OEM発注元のブランド名で製品を製造すること。相手先ブランドでの生産。合わせて多数の車種にのぼり、スズキは200万台規模のリコールと800億円の特別損失を計上し、鈴木俊宏社長は役員報酬を返上しています。
退くという発想がない——鈴木修が走り続けた経営者人生
鈴木道雄の娘婿として社長に就いた鈴木修は、以後40年を超えて経営の前面に立ち続けました。GMとフォルクスワーゲンという二つの大資本との提携を経てなお、独立を守り抜いています。
トヨタ自動車との提携交渉開始を発表した記者会見で、鈴木修は「企業経営者というのは『これで一段落』ということを考えていないと思いますよ」と語りました。持ち前の負けん気で、電動化や自動運転という新しい競争にも前のめりで備え続けました。
「修節」と呼ばれた率直な物言いと、生涯にわたって前面に立ち続ける姿勢が、スズキという会社の個性そのものになっていきました。
