織機をつくる会社は、なぜ世界の頂点に立てたのか。 創業者の辞任、労働争議、リコール問題——トヨタの百年も、平坦ではない。 それでも「カイゼン現場の従業員自身が、生産工程のムダや問題点を少しずつ見つけて改善し続けるトヨタ発祥の考え方。世界中で「Kaizen」として通じる言葉になっている。」の一語で、世界の頂点に立ち続けている。

01

創業から現在へ — ストーリー

1867
佐吉の織機発明から喜一郎の自動車進出へ
豊田佐吉が織機の特許を取得した。息子の喜一郎は、その特許権を英プラット社へ譲渡し、資金の一部を自動車の研究に充てた。やがてトヨタ自動車工業株式会社を設立した。
1938
経営危機の末、創業者が社長を辞任
挙母工場(現・本社工場)が操業を開始し、喜一郎が社長に就任した。戦後のドッジ不況で資金繰りが悪化し、人員整理をめぐる労働争議の末、喜一郎は社長を辞任した。
1951
純国産クラウンで対米輸出に挑む
純国産技術のトヨペット・クラウンを発売した。2年後、対米輸出の第1号として送り出し、米国に販売会社を設立した。翌年の本格輸出では性能・品質面の課題が露呈した。
1960
量産体制を拡大し、工販合併で新社発足
量産体制を確立し、カローラ発売でモータリゼーションを引っぱった。工販合併でトヨタ自動車株式会社が発足し、米GMとの合弁(NUMMI)で北米生産に着手した。
1990
プリウス発売とグローバル展開の加速
世界初の量産ハイブリッド車「プリウス」を暮れに発売した。開発着手から約2年での量産化だった。米英の証券取引所にも上場し、世界販売台数で首位に立った。
2008
赤字決算とリコール問題に直面
リーマン・ショックで翌期の営業損益は4,610億円の赤字に転落した。米国のアクセルペダル不具合で大規模リコールも起き、豊田章男社長が米議会の公聴会に出席した。
2011
モビリティカンパニーへ舵を切る
グローバルビジョンを発表した2日後、東日本大震災が発生した。以降はCASE自動車業界の大変化を表す4つの英単語の頭文字(Connected=つながる、Autonomous=自動運転、Shared=共有、Electric=電動化)をまとめた業界用語。時代を見据えたモビリティカンパニーへの変革を掲げている。
TEN YEARS

10年で、売上は約1.8倍

60兆円
30兆円
2016 · · · · · · · · 2025
売上 純利益(会社に残った利益)
売上
10年前
275,972億円
↓
現在
506,850億円
約1.8倍に増加
純利益
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
10年前
18,311億円
↓
現在
38,481億円
売上100円につき約8円
従業員
10年前
364,445人
↓
現在
390,927人
約1.1倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
自動車事業
乗用車・商用車を世界に売る中核事業です。連結収益の約9割を占めます。
柱 02
金融事業
トヨタ車の販売を支える金融事業です。自動車事業に次ぐ第2の柱です。
柱 03
その他の事業
自動車・金融以外の事業を集めたセグメントです。割合は小さめです。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

大工の息子が読んだ本——特許第1195号という第一歩

トヨタの物語は、自動車が生まれる半世紀前から始まります。遠江国(現・静岡県湖西市)に生まれた豊田佐吉は、大工だった父の仕事を手伝いながら育ちました。青年期の佐吉は、明治のベストセラー『西国立志編』に描かれた欧米の発明家たちの逸話に触れて向学心を高めます。公布されたばかりの「専売特許条例」に強い関心を持ったことが、織機の発明を志すきっかけになったと伝えられています。

1890年、佐吉は改良した手織り機の特許を出願するため横浜の知人宅に身を寄せ、東京の特許局へ通いました。翌年授与された特許第1195号「織機」——この木製人力織機の特許が、発明人生の第一歩になったのです。

特許は10万ポンドで売れた——喜一郎はフォードの工場へ

1929年の暮れ、豊田喜一郎は英国の紡織機メーカー・プラット社と、自身が発明した杼換(ひがえ)式自動織機に関する特許権の譲渡契約を結びました。譲渡額は総額10万ポンドです。契約調印のため米国を経由して渡英した喜一郎は、道中の米国では特許の売り込みを随行者に任せ、自分はフォード社の自動車工場や工作機械を見て回りました。この特許権譲渡料の一部が、自動車の研究開発の足がかりになりました。

2,146名が去った日——創業者も会社を去った

戦後のドッジ不況下、自動車の統制価格が据え置かれる一方で原材料価格が高騰し、トヨタ自動車工業の経営は急速に悪化しました。1950年、会社は1,600名の希望退職者募集を柱とする再建案を提示し、労働組合との争議へと発展。約2か月に及んだ争議が労使協定の締結で決着するまでに、募集した人数を大きく上回る2,146名が会社を去りました。

そのさなか、創業者・豊田喜一郎は労働争議の責任を負って社長を辞任します。後任には豊田自動織機製作所の石田退三社長が就任しました。自動車づくりに人生を賭けた創業者の辞任と引き換えに、会社は再建へと歩を進めたのです。

クラウンの初渡米——高速道路で力が出なかった

1957年、トヨタは国内での高評価を背景に、本格的な高速耐久試験を行わないままクラウンの対米輸出を決めました。翌年、ヘッドライトなしのクラウン・デラックス30台を船積みし本格輸出を始めます。ところが高速道路を走ると出力が足りず、激しい騒音と振動、部品の破損まで起きました。日本の道では十分だった性能が、アメリカでは通用しなかったのです。

トヨタはこの不具合に、出力を高めて高速走行性能を改善した改良型シリーズの投入で応えました。対米輸出のつまずきは、そのまま高速で走れる車をつくる宿題になったのです。

「燃費2倍」の一言——プリウスは2年で量産にこぎ着けた

1993年に発足した「G21プロジェクト」は、当初エンジン効率の向上による燃費1.5倍化を目標にしていました。ですが技術担当役員から燃費2倍という目標が示され、方針はハイブリッドシステム採用へと転換します。「トヨタ・ハイブリッド・システム(THS)」の技術発表を経て、同じ年の暮れに量産ハイブリッド車「プリウス」を発売しました。正式な開発着手から、わずか約2年で量産にこぎ着けました。

4,610億円の赤字——それでもトヨタは人を切らなかった

2008年秋のリーマン・ショックを契機に世界的な金融危機が広がり、自動車需要は急減しました。前の期に過去最高益を上げていたトヨタは一転、翌期の決算で4,610億円の営業赤字へ転落します。創業期以来の営業赤字でした。

トヨタは緊急収益改善委員会を設置し、総費用の低減と売上の最大化に取り組みました。国内では「会社休業」、海外の一部工場では賃金減額を伴う「ワークシェアリング」を採用し、レイオフではなく雇用の確保を優先しています。

米議会の公聴会——豊田章男の「私は孤独ではなかった」

2009年夏、米国でフロアマットがアクセルペダルに干渉したとみられる事故が発生し、トヨタ車の安全性に関する報道が過熱しました。同年秋のフロアマット関連リコールに続き、年明けにはアクセルペダルの戻り遅れを理由に世界444万台のリコールを発表。その翌月、豊田章男社長は米下院監督・政府改革委員会の公聴会に出席し証言しました。

公聴会終了後、ワシントンに集まっていた米国の販売店やサプライヤー関係者と会った章男社長は、「公聴会で私は孤独ではなかった。米国そして世界中の仲間たちが私とともにいたからです」と謝辞を述べたと伝えられています。その後の米運輸省とNASAによる調査では、電子スロットルの欠陥を示す証拠は発見されませんでした。

602社の巨大企業群——日野は統合で連結を外れた

トヨタグループの連結対象は、602社の子会社に加え、多数の関連会社・共同支配企業で構成されています。自動車事業を中心に、金融事業とその他の事業を合わせた三つの区分で運営される巨大な企業体です。

グループの一員だった日野自動車は、2026年に三菱ふそうトラック・バスとの経営統合に伴い、トヨタの連結子会社親会社の決算に売上・利益をまとめて計上する子会社。親会社が過半数の議決権を持つ会社などが対象。から外れました。長年商用車生産を支えてきた会社が、グループの外へ独立の道を歩み始めたのです。