ポケットモンスターの生みの親であり、開発会社ゲームフリークを率いる田尻智。 虫捕りに明け暮れた町田の少年は、ゲームボーイの通信ケーブルに「生き物のやり取り」を思いつき、6年がかりでポケモンを世に送り出した。 そのIPは映画・ゲーム・グッズを合わせて1,000億ドル規模のビジネスへ育っている。 出発点は、10代のころに手書きの同人誌を作っていたことだ。
- 虫捕り少年が、同人誌からゲーム会社を興すまでの道のり
- 6年間、他社の受託開発と並走しながら進んだポケットモンスター開発の内側
- 一つの発想が、なぜ1,000億ドル規模のキャラクタービジネスへ育ったのか、その経営の構造
虫捕り少年、町田で「ゲームフリーク」を作る
田尻智が育ったのは、東京都町田市だった。当時はまだ田んぼや小川、雑木林が残る農村地帯で、周りの子どもたちと同じように、田尻も虫捕りに夢中になっていく。ただし田尻のやり方は、ただ闇雲に追いかけるだけではなかった。甲虫には日中、物陰にじっと潜んでいる習性がある。そこに目をつけ、あらかじめ隠れ場所になりそうな石を用意しておくというやり方で、まわりの友達より多くの獲物にありついていたと、のちのインタビューで振り返っている。
転機は16歳のときに訪れる。スペースインベーダーに夢中になったことがきっかけで、田尻は1983年、ゲームの攻略情報をまとめた手書きの同人誌「ゲームフリーク」を作り始めた。「ゼビウス」を特集した号は1万部を売り上げたと、田尻自身が振り返っている。図鑑を眺めるだけでなく、実際に捕まえる。虫捕り少年の遊び方は、この同人誌づくりにもそのまま重なっていた。
同人誌の青年が興した、株式会社ゲームフリーク
田尻は、同人誌「ゲームフリーク」での実績を足がかりに、ファミコン通信(現・週刊ファミ通)の創刊号からゲームライターとして記事を書き始める。攻略記事を書く立場から、ゲームを作る立場へと変わっていく過程が、ここから始まった。
1989年、田尻は同人誌と同じ名前を引き継いで株式会社ゲームフリークを設立する。趣味の延長で始めた活動の名前が、そのまま法人の看板になった。設立の年は、のちにポケットモンスターの舞台となるゲームボーイが発売された年でもある。
設立の前後、ゲームフリークは最初の商品化タイトルとなるファミコンソフト「クインティ」を1991年に発売する。攻略情報を書く側にいた集団が、売り物のゲームを世に出す側へ回った瞬間だった。
6年がかりの開発 — カプセルモンスターからポケットモンスターへ
田尻がポケットモンスターの着想を得たのは、ゲームボーイの通信ケーブルだった。二台のゲームボーイをケーブルでつなぐと、データをやり取りできる。この機能を見た田尻は、ケーブルの向こうとこちらで生き物をやり取りするようなゲームを思い描いた。都市化が進み、身近な虫と触れ合う機会そのものが子どもたちの手から離れつつある状況を、田尻は気にかけていたと振り返っている。
1990年、田尻はこの構想を「カプセルモンスター」という企画として練り上げ、任天堂へ持ち込む。当時25歳、ゲームフリークはまだ社員2人という小さな会社だった。企画名は発売までに「ポケットモンスター」へ変わったが、中身の構想自体は、この時点でほぼ固まっていた。
ポケットモンスターの開発には、約6年の歳月がかかった。この6年のあいだ、ゲームフリークはポケモンだけを作っていたわけではない。任天堂向けの「ヨッシーのたまご」、セガ向けの「パルスマン」といった他社のソフトを並行して手がけている。パルスマンの必殺技「ボルテッカー」は、のちにピカチュウが覚える技として自社作品の中でセルフオマージュされ、作中の施設名「サント・アンヌ」も、ポケモンシリーズに登場する客船の名前として受け継がれた。杉森建は当時を振り返り、ノウハウのないまま手探りで進めていたため、じっくり時間をかけて作っていたと証言している。
1995年のうちに完成していたが、年末商戦には間に合わない時期で、発売は翌1996年にずれ込んだ。1年でもっとも売れにくい時期での船出だった。田尻は野球のたとえで、二塁に滑り込んでアウトだと覚悟したところがセーフだったという状況として、当時のゲームボーイ市場を振り返っている。
発売にこぎつけたあとにも、ちょっとした出来事があった。ゲームフリークのプログラマー、森本茂樹は、デバッグをすべて終えたロムカセットの最後の300バイトに、規則上は許されていなかったはずの手順で、もう1匹のポケモン「ミュウ」のデータをそっと書き加えていた。この扱いは、のちに想定外のバグとして世に知られることになり、雑誌の誌上企画を通じて幻のポケモンを配る催しへとつながっていった。
増田順一 — もう一人の創業メンバー
ポケットモンスターは田尻智の発想から生まれたが、開発チームには田尻だけでなく仲間がいた。増田順一もその一人で、ゲームフリーク設立前から田尻たちと関わり、「赤・緑」の開発以降、長くシリーズを支えてきた。「ルビー・サファイア」から「X・Y」まで各作でディレクターを務め、その後もポケモンGOをはじめ数多くのタイトルの開発に関わってきたと本人は振り返っている。
増田は2022年、ゲームフリークの常務取締役という立場を離れ、株式会社ポケモンでチーフ・クリエイティブ・フェローという新しい役職に就いた。ゲームという枠にとどまらず、驚きや楽しさを幅広く届けていきたいという抱負を、増田はこの就任にあたって語っている。
ゲームフリークの本社オフィスは宇宙がテーマで、会議室の名前には木星を指す「ジュピター」や土星の「サターン」、地球を意味する「ガイア」といった呼び名が使われている。土足厳禁の社風は、住まいのようにくつろぎながらゲームづくりに向き合ってきた創業期の名残とされる。社員はそれぞれ違うポケモンのイラストが描かれた名刺を持ち、増田の名刺はピカチュウとピチューの特別仕様だという。
株式会社ポケモンの誕生 — 3社共同出資でIPをひとつの窓口に
「赤・緑」は発売後に人気を集め、翌年にはテレビアニメが始まった。トレーディングカードゲームやグッズ展開も、数年をかけて広がっていく。ポケモンの原著作権を持っていたのは、任天堂・クリーチャーズ・ゲームフリークという3つの会社だった。
1998年、この3社は共同出資でポケモンセンター株式会社を設立する。この会社は2000年に商号を株式会社ポケモンへ変え、ブランド全体の管理を一手に担う窓口になった。役割分担は明確で、任天堂はビデオゲームの製造・販売、クリーチャーズはトレーディングカードゲームの開発とCGモデル制作、そしてゲームフリークはポケットモンスターシリーズの原案とゲーム開発を担った。田尻の会社は、あくまでゲーム制作という一つの役割に専念する立場を保った。
株式会社ポケモンが担う仕事は幅広い。ゲームソフトの開発と販売だけでなく、トレーディングカードゲーム、スマートフォン向けアプリ、アニメなどの映像作品、直営店舗の運営、商品化やタイアップのライセンス許諾、そして海外市場への展開まで、七つの柱で構成されている。ゲーム単体ではなく、カードや映像、グッズ、海外展開までを一体で運営する構造は、この3社共同出資から築かれていった。
代表取締役としての田尻智、そして1,000億ドル規模に育ったビジネス
ゲームフリークの公式サイトには、代表者として田尻智の名前が記載されている。事業内容は「ゲームソフトの企画・開発・販売」、所在地は東京都千代田区のKANDA SQUAREだ。シリーズのディレクションは長く増田順一が担ってきたが、会社の代表を田尻が務め続けている構図は変わっていない。
ポケモンというIPは、映画の興行収入で約18億ドル、ゲームソフトで200億ドル超、グッズ・商品化で800億ドルという内訳を含め、累計で約1,000億ドル、日本円にして十数兆円規模の経済圏に育った。運営会社である株式会社ポケモンの決算も、売上高2345億円、営業利益666億円という水準まで伸び、営業利益の規模は日本の大手テレビ局に匹敵する。純利益は2017年の88億円から、2022年には489億円まで伸びている。
この成長を支えているのは、スマートフォンゲームではなくトレーディングカードゲームだという分析がある。ライセンス収入やゲームアプリのヒットは、成長の一部に過ぎないというのがこの見立てだ。グッズ・商品化が最大の柱であり続けている構造は、田尻が虫を捕まえて集める遊びに夢中になった少年時代から、変わっていないようにも見える。
ゲームフリークが掲げる企業理念は、シンプルな一文にまとめられている。
「まだ見ぬ驚きと笑顔をつくろう」
株式会社ゲームフリーク公式サイト(企業理念)より

