タクシー会社に食品事業——任天堂は何度も畑違いに手を出しては、撤退を繰り返した。 それでも「遊び」ひとつで、何度でも立ち上がってきた。

01

創業から現在へ — ストーリー

1889
京都の花札屋がトランプで生き延びる
京都の花札屋として創業し、輸入品頼みのトランプを国産化して生き残った。プラスチック製トランプの量産や株式上場を経て、社名を任天堂株式会社に改めた。
1963
多角化の失敗を経て玩具ヒットへ転じる
3代目・山内溥はタクシーや食品などへ多角化するが撤退。玩具「ウルトラハンド」の大ヒットを経て、家庭用ゲーム機の発売で娯楽ひと筋の路線が定まった。
1980
ゲーム&ウオッチとファミコンで世界へ
携帯機「ゲーム&ウオッチ」と「ファミリーコンピュータ」を発売し、東証一部東京証券取引所の上場区分の一つ。2022年の市場再編で、上場企業はプライム・スタンダード・グロースの3区分に分けられた(それ以前は市場第一部・第二部やマザーズと呼ばれていた)。に上場した。『マリオ』や「ゲームボーイ」で世界的なゲーム企業となった。
2000
岩田聡がDSとWiiで過去最高益に導く
岩田聡が社長に就任し、ニンテンドーDSとWiiを発売。売上高1兆8,386億円・営業利益5,552億円と過去最高の業績に達した。
2012
Wii Uが3期連続の営業赤字に沈む
Wii Uは3期連続の営業赤字に沈んだ。岩田聡はDeNAとの提携と後継機「NX」の開発を公表したが、同年に55歳で急逝した。
2017
Switchが過去最高の売上を記録
Nintendo Switchは発売初年で世界累計1,000万台を突破し、売上高は前期の2倍超に回復。後継のSwitch 2も経て過去最高の売上を記録した。
TEN YEARS

10年で、売上は約4.7倍

2.5兆円
1.2兆円
2016 · · · · · · · · 2025
売上 純利益(会社に残った利益)
売上
10年前
4,891億円
↓
現在
23,131億円
約4.7倍に増加
純利益
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
10年前
1,026億円
↓
現在
4,241億円
売上100円につき約18円
従業員
10年前
5,166人
↓
現在
8,666人
約1.7倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
ゲーム機事業
Switch本体とソフトを一体で売る中核事業で、連結売上の約9割を占めます。
柱 02
デジタルビジネス
ソフトのダウンロード販売やオンラインサービスで得る継続収入型の事業です。
柱 03
IP関連事業
映画やテーマパーク、グッズでIPを広げ収益源を増やす事業です。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

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「大統領」——ばくち打ちが認めた花札

創業者の山内房治郎は手先の器用な職人で、色むら・キズ・張りむらのない花札を作ったと伝えられています。当時のプロのばくち打ちは、1組の花札を一度しか使いませんでした。勝負のたびに新品をおろすのです。札に目印をつけるイカサマを防ぐため、品質にもっとも厳しいお客だったわけです。房治郎は最高品質の札にナポレオンの絵柄をあしらい、「大統領」のブランドで売り出しました。

1902年、かるた類への課税で業界が沈むと、輸入品ばかりだったトランプの国産化に踏み切って生き延びます。たばこ王・村井吉兵衛の販売網を借りて全国に販路を広げ、京都の花札屋は、小さいながらも手堅いカードメーカーとして全国に名を知られるようになりました。

祖父の急病——22歳の大学生が任天堂の社長になった

大学4年生だった山内溥は、祖父が病に倒れたため大学を中退して京都に戻り、22歳で任天堂の3代目社長に就きました。工場の集約のため創業以来初めて融資を受けると、古参の従業員が反発し、数か月に及ぶストライキに直面します。

新設した工場で1年以上かけて開発したのが、日本初のプラスチック製トランプでした。値段は従来の倍近く、当初は伸び悩みましたが、品質で浸透します。その数年後には米ウォルト・ディズニーと交渉し、ミッキーマウスを絵柄にしたトランプを発売。テレビCMと遊び方のルールブックで子どもたちに爆発的に売れ、1962年の株式上場につながりました。

「ふぐ茶漬け」の大失敗——任天堂が娯楽一本に絞った理由

カード事業の将来に不安を抱いた山内溥は、タクシー会社「ダイヤ交通」を設立しました。トランプのダイヤをエンブレムに掲げ、ピーク時には40台近い営業車両を抱えます。しかし労働組合との対立をきっかけに、名鉄グループへ譲渡して撤退しました。食品事業でもインスタントライスや「ふぐ茶漬け」「ポパイラーメン」を売り出しましたが振るわず、撤退しています。

折しも本業のディズニートランプも売上が落ち、会社は将棋やマージャン牌を売って食いつなぎました。山内溥は後年、岩田聡に社長を譲る際、異業種には絶対に手を出すなと厳命したと伝えられています。娯楽に専念する任天堂の姿勢は、この失敗の時代に固まりました。

レーザークレー射撃——50億円の負債を抱えた挑戦

ボウリングブームの終わりを予感した山内溥は、閉鎖が相次ぐボウリング場の跡地を光線銃の射撃場に変える「レーザークレー射撃システム」を1973年に立ち上げました。スクリーンに映る円盤を光線銃で撃ち落とす新しい遊びに、全国から注文が殺到します——が、同じ年の第1次オイルショックでキャンセルが続出しました。

翌年の売上高は前の年より約2割少ない35億円まで落ち込み、負債は50億円に膨らみます。社運を賭けた投資は裏目に出ました。それでも、このときに得たエレクトロニクス技術と販売ルートは無駄になりません。後のアーケードゲーム進出と、100万台を売った家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15・6」(1977年)に生きることになります。

新幹線の暇つぶし——電卓を遊びに変えた携帯ヒット

ゲーム&ウオッチの誕生は、開発部長の横井軍平が新幹線の中で電卓で遊んでいる人を見たのがきっかけだった——と、任天堂の公式インタビューで語られています。実際に採用されたのは電卓用と同じチップでした。8桁の電卓が表示に使う72個の「セグメント」を、数字ではなく絵に置き換えてゲームにしたのです。

時刻表示のコロン1個分のセグメントさえ節約したい——開発者は後年そう振り返っています。得点の千の位は「1」しか表示できず、最高得点は「1999」でした。1980年の第1作『ボール』から約6年で59タイトルが大ヒットし、任天堂の売上高は翌年600億円へと急伸します。レジャー事業で抱えた負債を完済し、この資金がファミコン開発に注がれていきました。

HAL研究所からの転身——任天堂代表取締役に就任した

ゲーム開発会社HAL研究所でプログラマとしてキャリアをスタートした岩田聡は、2000年に任天堂へ入社し、2002年に代表取締役に選出されました。岩田が掲げたテーマは「ゲーム人口を拡大する」。タッチペンのDSと体を動かすWiiで、ゲームをしない人までもお客に変えていきました。

棚卸資産5,398億円——需要予測にすべてが懸かる

ゲーム機やソフトは流行り廃りが激しく、季節性も強いため、任天堂は生産量の見極めに常に頭を悩ませてきました。2026年3月期末時点の連結貸借対照表には、棚卸資産として5,398億円が計上されています。売れ残れば型落ちして価値が下がり、逆に品薄なら年末商戦の売り時を逃します。

任天堂はこの読み違いのリスクを抑えるため、需要に見合った量だけを作る見込み生産と、在庫を持たないダウンロード版ソフトの販売を並行して進めています。それでも棚卸資産の評価額は経営者による将来の販売計画の見積もりに左右され、監査法人が監査上の主要な検討事項に挙げるほど、判断の分かれる数字です。