顧客資産残高で国内最大の証券会社、野村證券を率いる野村ホールディングス。 大阪の両替商から出発し、幾度もの不祥事でトップ交代を経験してきた。 それでも2008年、リーマン・ブラザーズの一部をわずか2ドルで買い取り、世界へ打って出た。

01

創業から現在へ — ストーリー

1872 — 1925
大阪の両替商から、野村證券が生まれる
初代野村徳七は1872年、大阪で両替商を営んでいました。その流れをくむ大阪野村銀行の証券部が1925年に独立し、社員89名、公社債を専門とする会社として野村證券株式会社が生まれました。
1925 — 1965
株式業務へ広がり、野村総合研究所も誕生
設立当初の野村證券は公社債が専門でしたが、1938年には株式業務も本格的に始めます。戦後は1951年に投資信託の募集を再開し、1953年には「百万両貯金箱」を個人のお客様に配り始めました。1965年には野村総合研究所を設立しています
1978 — 1991
NTT上場の主幹事から、損失補填事件へ
1978年に社長となった田淵節也のもとで、野村證券は海外業務を広げ、世界有数の証券会社に成長しました。1987年にはNTTの株式上場で主幹事を務め、絶頂期を迎えます。ですが1991年、大口顧客への損失補填と暴力団関係者との取引が発覚。会長だった田淵節也は引責辞任し、社長の田淵義久も職を退きました。補填額は野村證券だけで279億円にのぼっています
1995 — 1997
総会屋事件で、また社長が辞める
取締役として復帰していた田淵節也でしたが、1997年、総会屋の小池隆一への利益供与が発覚します。証券取引等監視委員会は野村證券と元役員を検察に告発し、酒巻英雄社長が引責辞任しました。田淵節也もこのとき、すべての役職を退いています。
2001
持株会社に衣替えし、ニューヨークへ上場
2001年、野村證券は金融持株会社他の会社の株式を保有し、グループ全体の経営管理を担う会社。自らは事業を行わないことが多い。体制に移行し、野村ホールディングス株式会社が誕生しました。同じ年のうちにニューヨーク証券取引所に上場し、海外投資家からも資金を集めやすい体制を整えています。
2008
リーマン・ブラザーズの一部を買い取る
米リーマン・ブラザーズが経営破綻すると、野村ホールディングスはすぐさま買収交渉に動きました。アジア太平洋部門では約2億2,500万ドルを払って資産ごと引き継ぎ、欧州・中東部門は従業員だけを引き継ぐ形で、買収額はわずか2ドルでした。これにより従業員は数万人規模まで膨らんでいます。
2012 — 2025
インサイダー事件を経て、19年ぶりの最高益へ
2012年、公募増資の情報を公表前に顧客へ伝えていたことが発覚し、野村證券は金融庁から業務改善命令を受けました。親会社の野村ホールディングスでは渡部賢一グループCEOが引責辞任しています。その後、体制を立て直した野村は、2025年3月期に純利益3,407億円、2006年3月期以来19年ぶりの最高益を記録しました
TEN YEARS

10年で、売上は約2.8倍

5兆円
2.5兆円
2017 · · · · · · · · 2026
売上 純利益(手元に残った利益) 赤字だった年
売上
10年前
17,155億円
現在
47,585億円
約2.8倍に増加
純利益
(手元に残った利益)
10年前
2,396億円
現在
3,621億円
売上100円につき約8円
従業員
10年前
28,186
現在
28,677
ほぼ横ばい
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
個人・法人向け資産運用相談(ウェルス・マネジメント部門)
個人のお客様や企業に、株式や投資信託などの資産運用を提案する、野村グループの顔となる事業です。全国104店舗の窓口網を持ち、国内最大の顧客資産残高を抱えています
柱 02
投資信託・年金運用などの資産運用ビジネス(インベストメント・マネジメント部門)
個人投資家向けの投資信託に加えて、年金基金や金融機関などの機関投資家向けにも運用商品を提供する事業です。株式や債券といった伝統的な資産に加え、プライベート・エクイティや航空機リース、不動産などのオルタナティブ資産にも運用の幅を広げています。
柱 03
機関投資家向け証券売買・M&Aアドバイザリー(ホールセール部門)
世界の機関投資家を相手に、債券や株式の売買・引き受け、M&A企業の合併・買収の総称。他社の株式や事業を取得して一体化すること。の助言などを行う事業です。世界およそ90の国に広がる拠点網が、この事業の国際色を支えています。
柱 04
資産形成・資産承継を支える信託機能(バンキング部門)
2025年に新設された、信託銀行の機能を生かして資産形成や資産承継、資金ニーズに応える事業です。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

野村の業績は株式市場の売買代金や引き受け業務の件数に左右されやすく、相場が荒れると利益が振れやすい構造があります。四半期ごとの決算を、市況の動きと合わせて見る視点が参考になりそうです。

この会社は損失補填事件やインサイダー情報漏洩など、経営トップの辞任を伴う不祥事を何度も起こしてきました。新しいニュースに接したときは、どの部門で起きたことか、再発防止がどう説明されているかを見る視点が参考になりそうです。

「野村證券株式会社」に決まるまで

1925年、大阪の野村合名会社で発起人会が開かれました。新しい会社の名前には「野村ボンド・ハウス」や「株式会社野村證券部」といった案も挙がったといいます。

最終的に選ばれたのは「野村證券株式会社」でした。同じ年のうちに設立登記が完了し、翌年、社員89名で営業を始めています。本店は大阪に置かれ、東京・京都・名古屋・神戸に出張所を構えるところからのスタートでした。

NTTの上場を主幹事した年

戦後の野村證券は、投資信託や海外業務を軸に事業を広げていきました。1978年に社長となった田淵節也のもとでは国際部門が大きく伸び、世界有数の証券会社と評されるまでになります。

その勢いが頂点に達したのが1987年です。日本電信電話(NTT)の株式上場で主幹事を務め、同じ年にユーロ債の引受ランキングでも首位に立ちました。バブル景気の入り口だったこの時期、野村證券は日本の証券業界の中心にいました。

「損失補填」——279億円の代償

1991年、野村證券に激震が走りました。大口顧客への損失補填が発覚したのです。88年9月期から91年3月期までの補填額は合計27,914百万円、55件にのぼりました

同時に、暴力団関係者だった石井隆匡が東京急行電鉄株を買い占める際、野村證券がその窓口になっていたことも明らかになります。会長の田淵節也は経団連副会長の職を解かれたうえで引責辞任、社長の田淵義久も職を退きました。田淵節也は国会の証人喚問も受けています。

総会屋への利益供与と、二度目の社長辞任

1995年、田淵節也は取締役として野村證券に復帰していました。ですが1997年、総会屋の小池隆一への利益供与が発覚します。

証券取引等監視委員会は野村證券と当時の常務取締役らを検察に告発しました。酒巻英雄社長が引責辞任し、田淵節也もこのとき、相談役を含むすべての役職から退いています。1991年の損失補填事件から数年で、野村證券は再びトップの辞任という形で不祥事の責任を取ることになりました。

持株会社への衣替えと、NYSE上場

2001年、野村證券は事業会社から金融持株会社体制に移行し、野村ホールディングス株式会社が誕生しました

同じ年のうちに、野村ホールディングスとしてニューヨーク証券取引所に株式を上場します。国内の証券不祥事から10年、野村は海外の資本市場でも評価を得られる体制づくりに動いていました。

「2ドル」で買った欧州部門

2008年、米リーマン・ブラザーズが経営破綻しました。野村ホールディングスは倒産からわずか10日で、リーマンの資産の買収交渉をまとめています。

アジア太平洋部門には約2億2,500万ドル(約238億円)を払い、資産と雇用の両方を引き継ぎました。一方、欧州・中東部門で野村が支払った金額は、株式・投資部門の従業員約2,500人の雇用だけを引き継ぐ条件で、わずか2ドル。資産や顧客口座の査定(デューデリジェンス)を省くことで、破格の速さで決着させた買収でした。

「増資インサイダー」、二人のトップの退任

2012年、野村證券の機関投資家営業部署が、公募増資の情報を公表前に顧客へ伝えていたことが発覚しました。金融庁は野村證券に対し、金融商品取引法に基づく業務改善命令を出しています。

内部管理部門が「法人関係情報の管理態勢は適正で問題は生じ得ない」と過信し、他部署からの情報の恒常的なやり取りを見過ごしていたことが、金融庁の処分内容から分かっています。親会社の野村ホールディングスでは渡部賢一グループCEOが引責辞任しました。

19年ぶりの最高益、不祥事の先で

インサイダー事件の後も、野村ホールディングスは個人向け・投資運用・法人向けの各部門を立て直していきます。2025年に入り、その成果が数字に表れました。

2025年3月期の純利益は3,407億円で、前の期の2.1倍。2006年3月期以来、19年ぶりに過去最高を更新しました。個人向け・投資運用・法人向けの3部門すべてが増益となっています。不祥事のたびにトップが替わってきたこの会社にとって、久しぶりに明るいニュースでした。