碍子メーカーを飛び出した27歳の技術者が興した、京都の小さな町工場。 電子部品から通信、航空会社の再建までを動かす企業グループへ——転機は「動機善なりや、私心なかりしか」の自問だった。 京セラは、赤字を知らない。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.5倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
京セラは半導体・電子部品・複合機・通信機器など事業の幅が広く、四半期ごとの利益は特定事業の減損や、子会社の譲渡益といった一時的な要因で大きく振れることがあります。全社の増減益だけでなく、どの事業で何が起きたのかをセグメント別に見る視点が欠かせません。
京セラは通信自由化を機に第二電電(現KDDI)の設立を主導した経緯がありますが、両社は別の上場企業です。京セラの株主になっても、自動的にKDDIの株主になるわけではない点は混同しやすいので注意しましょう。
「情熱だけで事業は成功するのか」——恩人たちが賭けた資金
稲盛和夫が松風工業を去ると決めると、部下たちも後を追う動きが始まりました。しかし資金はありませんでした。元上司の青山政次と稲盛は、宮木電機製作所の専務・西枝一江と常務・交川有に出資を頼み込みました。交川は「26か27歳の人間にできるような、そんな簡単なものではない」とけんもほろろだったと伝えられています。それでも二人は何度も足を運び、ファインセラミックスの将来性を語り続けました。最終的に西枝、交川、そして宮木電機社長の宮木男也の3人が出資を決めます。西枝は家屋敷を抵当に入れて銀行から資金を借り入れたそうです。3人は株を握って会社を支配しようとしたのではなく、稲盛という人間に賭けたのでした。
「今にきっと日本一、世界一」——倉庫からの船出
1959年、京都セラミック株式会社の創立記念式典が、間借りした本社工場の2階事務所で執り行われました。役員5名、幹部11名、新規採用17名の合計28名という小さな船出でした。式典の夜、稲盛は役員や幹部を前に「今にこの原町一になろう。原町一になったら西ノ京一の会社を目指そう。西ノ京一になったら中京一、京都一、日本一、そしてもちろん世界一だ」と語ったと伝えられています。資金も設備も乏しいなかで稲盛が拠り所にしたのは、苦楽を共にした仲間との「人の心と心の結びつき」でした。
フィリップス社の見本を手に——創業期を支えたカソードチューブ
創業間もない京セラに、松下電子工業からブラウン管部品カソードチューブの注文が舞い込みました。材料から成形、焼成、加工まで自社で開発しなければならない難しい製品でしたが、稲盛はフィリップス社の見本を手に開発に挑みます。もっとも困難だったのは極薄チューブの切断で、焼き上がった中空部に溶かしたワックスを流し込んで固め、それごと刃を入れるという方法を編み出して解決しました。完成したカソードチューブは、松下電子工業から「フィリップス社の製品より良い」という評価を受けたと伝えられています。
新入社員の団体交渉——「物心両面の幸福」が生まれた日
京セラ創業の目的は、稲盛自身の技術を世に問うことでした。ですが創業3年目の春、前年に採用した新入社員が、将来にわたる待遇の保証を求めて団体交渉を申し入れてきます。三日三晩に及ぶ話し合いの末、社員側は要求を撤回して会社に残りましたが、この出来事を機に稲盛は、経営とは従業員とその家族の生活を将来にわたって守ることだと気づきました。ここから「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という京セラの経営理念が生まれています。
受注、10分の1——オイルショックと雇用死守の誓い
1973年の第一次オイルショックで、京セラの受注高は10分の1にまで激減しました。稲盛は雇用は死守すると宣言したうえで、生産性の維持や全員営業、新製品開発など考えられる対策をすべて実行します。それでも需要の低迷は続き、創業以来の危機と判断した稲盛は、管理職の賃金カットに踏み切り、労働組合にも賃上げの凍結を提案するという苦渋の決断を下しました。社員はこの厳しい状況を受け入れ、業績の立て直しに一丸となって取り組みます。景気回復後、稲盛は前年の分も含めた大幅な昇給と臨時賞与で社員の努力に報いています。
「動機善なりや、私心なかりしか」——巨大NTTに挑んだ第二電電
1984年の通信自由化に際し、稲盛は日本の高い長距離電話料金を下げたいと考えましたが、巨大なNTTへの挑戦には相当なリスクが伴いました。通信事業の専門技術者もいないなかで、稲盛は毎晩「通信事業を始めようとする動機は善なのか、そこに私心はないのか」と自らに問い続け、半年近く悩んだ末に参入を決意したと伝えられています。既存インフラを持たない第二電電は、山の頂上から頂上へパラボラアンテナの鉄塔を組んで東京・大阪間に電波を飛ばし、他の新電電と同時期に営業を開始しました。最も不利といわれた第二電電が、売上も利益も新電電3社のなかでトップに立ちました。
2兆3,000億円の破綻——JAL、無報酬会長が起こしたV字回復
2010年、日本航空は2兆3,000億円という事業会社として戦後最大級の負債を抱えて会社更生法の適用を申請しました。政府から再建を要請された稲盛は、高齢で他の仕事もあることを理由に報酬を一切受け取らずに会長へ就任します。就任前年の日本航空は営業損益1,337億円という巨額の赤字でしたが、稲盛はJALフィロソフィとアメーバ経営を持ち込み、幹部から現場社員までの意識改革を進めました。その結果、翌期の営業利益は1,884億円まで回復し、世界の航空業界でも有数の高収益企業に生まれ変わった日本航空は、2012年に再上場を果たしています。
有機基板事業の誤算——投資家が突きつけた「戦略なき多角化」
生成AI需要の拡大でサーバー市場の主役が汎用機からAIサーバーへ急速に移るなか、京セラの半導体部品有機材料事業は対応が遅れ、需要見通しを外しました。積極増強投資の方針も裏目に出て、大規模な減損の計上を迫られ、半導体関連部品事業は赤字に転落します。香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントはこの苦戦を名指しし、京セラが2015年の時点で通信機器や太陽光発電事業の見直しを求められながら受け入れなかった結果だと批判したと報じられています。京セラは生産体制の見直しなど構造改革を発表しましたが、投資ファンドは撤退を含むより踏み込んだ対応を求め続けています。
構造改革の実り——営業利益、過去最高水準へ
2026年3月期、京セラの営業利益は1,181億円(前期比332.8%増)となり、過去最高水準に達しました。苦戦していた半導体有機基板事業でも人員再配置による固定費の圧縮が進み、データセンター向け半導体需要の回復が追い風になっています。
投資ファンドからの事業再編要求はなお続いていますが、京セラは2026年3月期に売上規模およそ2,000億円の事業売却を検討し、株式売却などを原資にした自社株買い企業が自社の発行済み株式を市場などで買い戻すこと。も計画しています。創業以来一度も赤字を出していない実績を守りながら、事業の入れ替えによる立て直しが進んでいます。
