碍子メーカーを飛び出した27歳の技術者が興した、京都の小さな町工場。 電子部品から通信、航空会社の再建までを動かす企業グループへ——転機は「動機善なりや、私心なかりしか」の自問だった。 京セラは、赤字を知らない。

01

創業から現在へ — ストーリー

1932 — 1958
松風工業でフォルステライトを合成、上司と衝突し退社
鹿児島に生まれた稲盛和夫は、鹿児島大学を卒業後、不況下の就職難のなか教授の紹介で京都の碍子メーカー・松風工業株式会社への就職が内定しました。特殊磁器(現在のファインセラミックス)の研究に配属された稲盛は、入社の翌年、日本で初めてフォルステライトの合成に成功し、テレビのブラウン管部品への応用に道を開きます。ですが技術開発の方針をめぐり上司の技術部長と衝突し、松風工業を去ることになりました。
1959 — 1966
宮木電機の倉庫で創業、IBM受注で軌道に乗る
稲盛を慕う部下たちの申し出から新会社設立の動きが始まりましたが、資金はありませんでした。元上司の青山政次の口添えで、宮木電機製作所の専務・西枝一江、常務・交川有、社長・宮木男也の3人が出資を決意し、1959年に京都セラミック株式会社が創業しました。資本金300万円、従業員28名、宮木電機の一角を間借りしての船出でした。松下電子工業からのブラウン管部品受注などで基盤を固めた京セラは、1966年にはIBMから半導体基板の大型受注を獲得し、技術力と信用を大きく高めます。創業3年目には新入社員の待遇要求をめぐる団体交渉を機に、「全従業員の物心両面の幸福を追求する」という経営理念を確立しています。
1971 — 1975
株式上場とオイルショック、太陽電池研究に着手
京セラは1971年に大阪証券取引所、翌年に東京証券取引所へ株式を上場しました。1973年の第一次オイルショックでは受注が大きく落ち込み、稲盛は雇用を守ると宣言したうえで、管理職の賃金カットという苦渋の決断を下します。同じ時期、石油に頼らないエネルギーの必要性を感じた稲盛は、1975年に太陽電池の研究開発を始めています。
1979 — 1988
サイバネット・ヤシカ買収、社名を「京セラ」に、DDI設立
稲盛は経営難に陥った通信機器メーカーのサイバネット工業や、カメラメーカーのヤシカを相次いで買収し、救済に応じました。1982年には関連会社との合併を機に社名を京都セラミックから京セラに改めています。1984年、通信事業の自由化を受け、「動機善なりや、私心なかりしか」と自問し続けた末、京セラを中心にウシオ電機・セコムソニー三菱商事など24社とともに第二電電企画株式会社(のちの第二電電、現KDDI)を設立しました。既存インフラを持たない第二電電は山の頂上にパラボラアンテナを組んで対抗し、新電電3社のなかで売上・利益ともにトップに立ちました。
1990 — 2000
AVX買収、三田工業の再建、KDDIの発足
1990年、京セラは米国の電子部品大手AVX社を株式交換で買収し、電子部品事業を世界規模に広げました。1998年には経営破綻した複写機メーカー・三田工業から再建を求められ、京セラミタ(現・京セラドキュメントソリューションズ)として立て直しています。2000年には稲盛が主導した第二電電が、KDD・日本移動通信と合併し、現在のKDDIにつながる新会社が発足しました。
2008 — 2015
携帯電話事業を拡大、JAL再建に無報酬で挑む
京セラは2008年に三洋電機から携帯電話事業を承継し、通信端末事業を拡大しました。2010年、経営破綻した日本航空の再建を政府から要請された稲盛は、無報酬で会長に就任しています。JALフィロソフィ稲盛和夫がJAL再建の際、京セラの経営哲学をもとに作った、社員の心構えや行動指針をまとめたもの。アメーバ経営稲盛和夫が考案した経営管理手法。組織を「アメーバ」と呼ぶ小さな単位に分けて部門ごとの収支を見える化し、社員一人ひとりに経営者のような意識を持たせる仕組み。を持ち込み幹部社員の意識改革を進めた結果、巨額赤字だった営業損益は翌期に大幅な黒字へ転じ、日本航空は2012年に再上場を果たしました。
2023 — 2026
個人向け携帯撤退と構造改革、半導体部品の減損
京セラは2023年、個人向け携帯電話事業からの撤退を表明し、法人向けに軸足を移しました。半導体部品有機材料事業では需要見通しの読み違いから大規模な減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。を計上し、コアコンポーネントセグメントが赤字となる年もあります。投資家からの事業再編要求も強まるなか、京セラは構造改革と資産の入れ替えを進め、2026年3月期は米国子会社サザンカールソンの譲渡なども加わり、売上高2兆702億円(前期比2.8%増)、営業利益1,181億円(同332.8%増)と大きく回復しました。
TEN YEARS

10年で、売上は約1.5倍

2.5兆円
1.2兆円
2017 · · · · · · · · 2026
売上 純利益(手元に残った利益)
売上
10年前
14,228億円
現在
20,702億円
約1.5倍に増加
純利益
(手元に残った利益)
10年前
1,038億円
現在
1,410億円
売上100円につき約7円
従業員
10年前
70,153
現在
73,856
約1.1倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
コアコンポーネント
半導体関連部品や産業・車載用のセラミック部品を担う、創業以来の中核事業です。データセンターや車載市場向けの需要を取り込み、連結売上のうち最も大きな比率を稼ぐ事業の一つになっています。
柱 02
電子部品
1990年に買収した米国AVXを母体とするKYOCERA AVXグループが主力です。コンデンサなどの電子部品を、車載・情報通信市場を中心に世界へ供給しています。
柱 03
ソリューション
複写機・プリンタを手がける京セラドキュメントソリューションズ、切削工具の機械工具事業、法人向け通信端末を含むコミュニケーション事業などをまとめた事業群です。連結売上の過半を占める最大セグメントで、事業構成の入れ替えも活発に行われています。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

京セラは半導体・電子部品・複合機・通信機器など事業の幅が広く、四半期ごとの利益は特定事業の減損や、子会社の譲渡益といった一時的な要因で大きく振れることがあります。全社の増減益だけでなく、どの事業で何が起きたのかをセグメント別に見る視点が欠かせません。

京セラは通信自由化を機に第二電電(現KDDI)の設立を主導した経緯がありますが、両社は別の上場企業です。京セラの株主になっても、自動的にKDDIの株主になるわけではない点は混同しやすいので注意しましょう。

「情熱だけで事業は成功するのか」——恩人たちが賭けた資金

稲盛和夫が松風工業を去ると決めると、部下たちも後を追う動きが始まりました。しかし資金はありませんでした。元上司の青山政次と稲盛は、宮木電機製作所の専務・西枝一江と常務・交川有に出資を頼み込みました。交川は「26か27歳の人間にできるような、そんな簡単なものではない」とけんもほろろだったと伝えられています。それでも二人は何度も足を運び、ファインセラミックスの将来性を語り続けました。最終的に西枝、交川、そして宮木電機社長の宮木男也の3人が出資を決めます。西枝は家屋敷を抵当に入れて銀行から資金を借り入れたそうです。3人は株を握って会社を支配しようとしたのではなく、稲盛という人間に賭けたのでした。

「今にきっと日本一、世界一」——倉庫からの船出

1959年、京都セラミック株式会社の創立記念式典が、間借りした本社工場の2階事務所で執り行われました。役員5名、幹部11名、新規採用17名の合計28名という小さな船出でした。式典の夜、稲盛は役員や幹部を前に「今にこの原町一になろう。原町一になったら西ノ京一の会社を目指そう。西ノ京一になったら中京一、京都一、日本一、そしてもちろん世界一だ」と語ったと伝えられています。資金も設備も乏しいなかで稲盛が拠り所にしたのは、苦楽を共にした仲間との「人の心と心の結びつき」でした。

フィリップス社の見本を手に——創業期を支えたカソードチューブ

創業間もない京セラに、松下電子工業からブラウン管部品カソードチューブの注文が舞い込みました。材料から成形、焼成、加工まで自社で開発しなければならない難しい製品でしたが、稲盛はフィリップス社の見本を手に開発に挑みます。もっとも困難だったのは極薄チューブの切断で、焼き上がった中空部に溶かしたワックスを流し込んで固め、それごと刃を入れるという方法を編み出して解決しました。完成したカソードチューブは、松下電子工業から「フィリップス社の製品より良い」という評価を受けたと伝えられています。

新入社員の団体交渉——「物心両面の幸福」が生まれた日

京セラ創業の目的は、稲盛自身の技術を世に問うことでした。ですが創業3年目の春、前年に採用した新入社員が、将来にわたる待遇の保証を求めて団体交渉を申し入れてきます。三日三晩に及ぶ話し合いの末、社員側は要求を撤回して会社に残りましたが、この出来事を機に稲盛は、経営とは従業員とその家族の生活を将来にわたって守ることだと気づきました。ここから「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という京セラの経営理念が生まれています。

受注、10分の1——オイルショックと雇用死守の誓い

1973年の第一次オイルショックで、京セラの受注高は10分の1にまで激減しました。稲盛は雇用は死守すると宣言したうえで、生産性の維持や全員営業、新製品開発など考えられる対策をすべて実行します。それでも需要の低迷は続き、創業以来の危機と判断した稲盛は、管理職の賃金カットに踏み切り、労働組合にも賃上げの凍結を提案するという苦渋の決断を下しました。社員はこの厳しい状況を受け入れ、業績の立て直しに一丸となって取り組みます。景気回復後、稲盛は前年の分も含めた大幅な昇給と臨時賞与で社員の努力に報いています。

「動機善なりや、私心なかりしか」——巨大NTTに挑んだ第二電電

1984年の通信自由化に際し、稲盛は日本の高い長距離電話料金を下げたいと考えましたが、巨大なNTTへの挑戦には相当なリスクが伴いました。通信事業の専門技術者もいないなかで、稲盛は毎晩「通信事業を始めようとする動機は善なのか、そこに私心はないのか」と自らに問い続け、半年近く悩んだ末に参入を決意したと伝えられています。既存インフラを持たない第二電電は、山の頂上から頂上へパラボラアンテナの鉄塔を組んで東京・大阪間に電波を飛ばし、他の新電電と同時期に営業を開始しました。最も不利といわれた第二電電が、売上も利益も新電電3社のなかでトップに立ちました。

2兆3,000億円の破綻——JAL、無報酬会長が起こしたV字回復

2010年、日本航空は2兆3,000億円という事業会社として戦後最大級の負債を抱えて会社更生法の適用を申請しました。政府から再建を要請された稲盛は、高齢で他の仕事もあることを理由に報酬を一切受け取らずに会長へ就任します。就任前年の日本航空は営業損益1,337億円という巨額の赤字でしたが、稲盛はJALフィロソフィとアメーバ経営を持ち込み、幹部から現場社員までの意識改革を進めました。その結果、翌期の営業利益は1,884億円まで回復し、世界の航空業界でも有数の高収益企業に生まれ変わった日本航空は、2012年に再上場を果たしています。

有機基板事業の誤算——投資家が突きつけた「戦略なき多角化」

生成AI需要の拡大でサーバー市場の主役が汎用機からAIサーバーへ急速に移るなか、京セラの半導体部品有機材料事業は対応が遅れ、需要見通しを外しました。積極増強投資の方針も裏目に出て、大規模な減損の計上を迫られ、半導体関連部品事業は赤字に転落します。香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントはこの苦戦を名指しし、京セラが2015年の時点で通信機器や太陽光発電事業の見直しを求められながら受け入れなかった結果だと批判したと報じられています。京セラは生産体制の見直しなど構造改革を発表しましたが、投資ファンドは撤退を含むより踏み込んだ対応を求め続けています。

構造改革の実り——営業利益、過去最高水準へ

2026年3月期、京セラの営業利益は1,181億円(前期比332.8%増)となり、過去最高水準に達しました。苦戦していた半導体有機基板事業でも人員再配置による固定費の圧縮が進み、データセンター向け半導体需要の回復が追い風になっています。

投資ファンドからの事業再編要求はなお続いていますが、京セラは2026年3月期に売上規模およそ2,000億円の事業売却を検討し、株式売却などを原資にした自社株買い企業が自社の発行済み株式を市場などで買い戻すこと。も計画しています。創業以来一度も赤字を出していない実績を守りながら、事業の入れ替えによる立て直しが進んでいます。