半官半民の翼から、世界を結ぶ航空会社へ。 その歴史は、戦後有数の経営破綻を越えた再生の物語でもあります。 稲盛和夫の哲学とともに、わずか2年8か月で空へ舞い戻りました

01

創業から現在へ — ストーリー

1951 — 1953
免許争いの末、半官半民の日本航空が発足
戦後の航空禁止が解けた1950年、複数の企業が国内航空事業への参入を目指しました。行政指導によって一本化が進み、1951年、日本航空株式会社が設立されます。社員はわずか39人からのスタートでした。2年後には「日本航空株式会社法」が公布され、政府が出資し社長人事にも国の認可が必要な特殊会社として、国際線と国内幹線を担う体制が整いました。
1953 — 1987
半官半民のまま国際線を拡大、そして完全民営化へ
特殊会社となった日本航空は、国際線と国内幹線を担う立場で路線網を広げていきました。1970年には日本初のハイジャック事件「よど号事件」に見舞われ、1985年には520人が犠牲になった日本航空123便墜落事故が起こります。同じ1985年に国が路線を割り振る「45/47体制」が廃止されると民営化の議論が進み、1987年、日本航空は完全民営化を果たしました。
2002 — 2006
日本エアシステムと経営統合、安全管理も問われる
2002年、日本航空は国内線に強い日本エアシステムと経営統合し、持株会社他の会社の株式を保有し、グループ全体の経営管理を担う会社。自らは事業を行わないことが多い。体制に移行しました。2004年にいったん国際線担当と国内線担当の2社に分かれますが、2006年に再び一つの事業会社に合併します。同じ頃、管制指示の誤認識など現場の人的ミスも相次ぎ、2005年には国土交通省から事業改善命令という異例の行政処分を受けました。
2008 — 2010
リーマン・ショックが引き金、経営体質の限界が露呈
2008年のリーマン・ショック後、原油高と世界的な需要減が重なり、日本航空の業績は急速に悪化しました。背景には、供給座席数が需要を上回りがちな路線構造、ホテル事業など関連投資の失敗、複雑な労使関係といった長年の課題がありました。2010年の年明け、負債総額約2兆3,000億円を抱えて会社更生法の適用を申請し、事実上の経営破綻に至ります。
2010 — 2012
稲盛和夫の会長就任と、2年8か月での再上場
会社更生法の適用後、京セラ名誉会長の稲盛和夫が無報酬でJAL会長に就任しました。「JALフィロソフィ稲盛和夫がJAL再建の際、京セラの経営哲学をもとに作った、社員の心構えや行動指針をまとめたもの。」と「アメーバ経営稲盛和夫が考案した経営管理手法。組織を「アメーバ」と呼ぶ小さな単位に分けて部門ごとの収支を見える化し、社員一人ひとりに経営者のような意識を持たせる仕組み。」を導入し、路線・人員の大幅な見直しを進めます。2010年3月期に1337億円あった営業赤字は、2012年3月期には2049億円の営業黒字に転じました。2012年、日本航空はわずか2年8か月で東京証券取引所に再上場します。
2012 — 2026
再上場後の成長、LCCと国際線が支える増収増益
再上場後の日本航空は、格安航空会社(LCC)の「ZIPAIR Tokyo」や「スプリング・ジャパン」を傘下に加え、路線網を広げてきました。国際線ではインバウンド需要の取り込みが進み、2025年3月期の連結純利益は約1,050億円と、新型コロナ前の2019年3月期(1,508億円)以来6期ぶりに1,000億円を超えました。半官半民の翼として生まれた会社は、いま世界とアジアを結ぶ航空会社として飛び続けています。
TEN YEARS

7年で、売上は約1.5倍

2.5兆円
1.2兆円
2020 · · · · · 2026
売上 純利益(手元に残った利益) 赤字だった年
売上
7年前
13,859億円
現在
20,125億円
約1.5倍に増加
純利益
(手元に残った利益)
7年前
436億円
現在
1,376億円
売上100円につき約7円
従業員
7年前
35,653
現在
39,076
約1.1倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
国内線・国際線を担う中核事業(フルサービスキャリア)
日本各地と世界の都市を結ぶ、日本航空グループの中核事業です。機内サービスの質と利便性の高い路線網を武器に、国内外の旅客需要を取り込んでいます。
柱 02
格安航空(LCC)事業
「ZIPAIR Tokyo」や「スプリング・ジャパン」、出資先の「ジェットスター・ジャパン」を通じて、手頃な価格の空の移動を提供する事業です。成田空港を拠点に、アジアや北米へのネットワークを広げています。
柱 03
貨物・郵便事業
医薬品や地域の特産品といった高付加価値な貨物を、旅客便・貨物便のネットワークで速く運ぶ事業です。人だけでなく、モノの移動も支えています。
柱 04
マイル・金融・生活サービス事業
マイレージサービスを軸に、旅行や地域の商品開発、金融サービスなどを手がける事業です。航空券を買わない日にもJALと接点を持ってもらうための仕組みになっています。
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投資指標

株価
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東証プライム
前日比
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配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

日本航空(証券コード9201)は、全日本空輸(ANA、証券コード9202)と名前や事業が似ていて、混同されやすい銘柄です。両社は別の会社で、路線構成やグループ会社の顔ぶれも異なります。

航空事業は、燃料費や為替、感染症・災害といった外部要因の影響を受けやすい構造です。日本航空は2010年に一度経営破綻を経験しており、業績の振れ幅が大きい業種であることを、この会社の歴史そのものが物語っています。

「日本航空株式会社法」——政府出資と国の認可に縛られた半官半民時代

1953年、日本航空株式会社法が公布されます。この法律により、日本航空は国際線と国内幹線だけを担う特殊会社と位置づけられました。政府が出資する一方、代表取締役(社長)の選任や定款変更、合併・解散の決議には運輸大臣の認可が必要という、半官半民の体制です。

空の便利さを国全体で支える一方、経営の自由度は限られる体制でした。この体制は、1987年の完全民営化まで34年間続きます。

よど号ハイジャック事件——日本初のハイジャックが変えた法律

1970年春、日本航空351便「よど号」が乗っ取られました。日本で初めてのハイジャック事件です。犯人グループは北朝鮮への亡命を求め、機長を脅して福岡空港、そして韓国・金浦空港へ向かわせました。

運輸政務次官の山村新治郎が乗客の身代わりを申し出て人質になり、乗客・乗員は解放されます。事件から2か月後、「航空機の強取等の処罰に関する法律(ハイジャック防止法)」が制定され、日本の航空保安の仕組みが大きく変わりました。

御巣鷹山、520人——日本航空123便墜落事故

1985年、日本航空123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が犠牲になりました。単独機の事故としては世界最悪の犠牲者数です。原因は、過去の修理でボーイング社が施した圧力隔壁の補修に不備があったことでした。

日本航空はこの事故を教訓に、2006年、全社員が安全の重みを学ぶ「安全啓発センター」を開設しています。忘れてはならない事故として、いまも社内教育の原点に位置づけられています。

完全民営化と「45/47体制」の終わり

1985年、国内の航空会社の路線を国が割り振る「45/47体制」が廃止されます。同じ年、当時の中曽根康弘首相が進めた民営化路線を受け、日本航空も完全民営化の方針を打ち出しました。

1987年、日本航空は特殊会社としての立場を離れ、普通の株式会社になります。半官半民として生まれた会社が、設立から36年で民間企業に生まれ変わった瞬間でした。

「事業改善命令」——2005年、国からの異例の処分

2005年、日本航空では管制指示の誤認識や非常口モードの変更漏れなど、ヒューマンエラーによるトラブルが相次ぎました。国土交通省は同年、航空法にもとづく事業改善命令を出します。過去に前例が2回しかない、異例に重い処分でした。

日本航空はこの年のうちに安全アドバイザリーグループを設置し、安全最優先の体制づくりに動き出しています。トラブルの連鎖を、組織立った安全管理の見直しにつなげた出来事でした。

「JALシステム」——日本エアシステムとの経営統合

2002年、日本航空は国内線を主力とする日本エアシステムと経営統合し、持株会社「株式会社日本航空システム」を発足させました。2004年にはいったん国際線担当と国内線担当の2社に分かれますが、2006年に再び一つの事業会社に合併します。

国内路線網の厚みを得た統合でしたが、組織の複雑さは、のちの経営再建でも課題として扱われることになりました。

2兆3,000億円の負債——2010年、戦後有数の経営破綻

2008年のリーマン・ショック後、原油高と需要減が重なり、日本航空の経営は急速に悪化しました。供給座席数が需要を上回りがちな路線構造、ホテル事業など関連投資の失敗、複雑な労使関係といった課題が積み重なっていたところに、外的なショックが直撃した形です。

2010年の年明け、負債総額約2兆3,000億円を抱えて会社更生法の適用を申請し、わずか1か月ほどで上場廃止株式が取引所での売買対象でなくなること。となりました。戦後4番目の規模とされる、事業会社としては異例の大型破綻でした。

稲盛和夫と「JALフィロソフィ」——無給の会長が持ち込んだ哲学

経営破綻から間もない2010年、京セラ名誉会長の稲盛和夫が、無報酬で日本航空の会長に就任しました。当時のJALは、倒産した危機感や当事者意識に乏しく、再建は不可能とさえ言われていたと伝えられています。

稲盛は「JALフィロソフィ」と呼ばれる行動指針と、小集団ごとに採算を管理する「アメーバ経営」を導入しました。全社員が経営者意識を持つことを目指したこの取り組みは、社員の意識改革につながったと伝えられています。

世界2位の大型上場——2012年、2年8か月での再生

2010年3月期に1337億円あった営業赤字は、2012年3月期には2049億円の営業黒字に転じました。2012年、日本航空は東京証券取引所に再上場します。初値新規上場した株式が取引所で最初に成立する取引価格。は売り出し価格を上回り、時価総額株価に発行済み株式数をかけた金額。企業の大きさを市場の評価額で示す数値。は約6900億円。この年、世界の株式市場で米フェイスブックに次いで2番目の規模の上場になったと報じられています。

破綻からわずか2年8か月での復帰でした。いまも日本航空は、LCCや国際線の拡大を通じて、世界とアジアを結ぶ航空会社であり続けています。