27歳、資金はゼロ。京都の小さな町工場から全ては始まった。 電子部品から通信、航空会社の再建までを動かす企業グループへ——転機は「動機善なりや、私心なかりしか」の自問だった。 京セラは、赤字を知らない。

01

創業から現在へ — ストーリー

1932
上司と衝突し、松風工業を退社
鹿児島大学卒業後、京都の碍子メーカー・松風工業に入社した稲盛和夫は、フォルステライトの合成に成功するが、技術開発の方針をめぐり上司と衝突し退社した。
1959
宮木電機の倉庫で京都セラミックを創業
京都・宮木電機の一角を間借りして創業。松下電子工業向けの部品受注で基盤を固め、IBMからの半導体基板受注で軌道に乗った。
1971
大阪証券取引所に株式上場
大阪証券取引所に株式を上場し、翌年には東京証券取引所にも上場した。その後のオイルショックでは雇用死守を掲げ、太陽電池の研究にも着手した。
1979
第二電電(現KDDI)を設立
経営難のサイバネット工業とヤシカを買収し、社名を京都セラミックから京セラに改めた。通信自由化を機に、稲盛はウシオ電機など24社とともに第二電電を設立した。
1990
米国AVX社を買収
AVX社を買収し、電子部品事業を世界に広げた。経営難の三田工業も傘下に収め、第二電電はKDD・日本移動通信と合併し現在のKDDIとなった。
2008
三洋電機から携帯電話事業を承継
三洋電機から携帯電話事業を承継し、通信端末事業を拡大した。稲盛はその後、経営破綻した日本航空の再建を無報酬で引き受け、黒字転換に導いた。
2023
個人向け携帯電話事業から撤退
個人向け携帯電話事業から撤退した。半導体部品有機材料事業の減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。でコアコンポーネントが赤字となる年もあったが、構造改革を経て業績は過去最高水準まで回復した。
TEN YEARS

10年で、売上は約1.5倍

2.5兆円
1.2兆円
2016 · · · · · · · · 2025
売上 純利益(会社に残った利益)
売上
10年前
14,228億円
↓
現在
20,702億円
約1.5倍に増加
純利益
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
10年前
1,038億円
↓
現在
1,410億円
売上100円につき約7円
従業員
10年前
70,153人
↓
現在
73,856人
約1.1倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
コアコンポーネント
データセンターや車載向けにセラミック部品を供給する中核事業です。
柱 02
電子部品
AVX買収で得た電子部品を、車載・通信向けに世界へ供給する事業です。
柱 03
ソリューション
複合機や工作機械、通信端末など法人向け製品を扱う最大の売上セグメントです。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

「情熱で事業は成功するか」——恩人たちが賭けた資金

稲盛和夫が松風工業を去ると決めると、部下たちも後を追う動きが始まりました。しかし資金はありませんでした。元上司の青山政次と稲盛は、宮木電機製作所の専務・西枝一江と常務・交川有に出資を頼み込みました。交川は「26か27歳の人間にできるような、そんな簡単なものではない」とけんもほろろだったと伝えられています。それでも二人は何度も足を運び、ファインセラミックスの将来性を語り続けました。最終的に西枝、交川、そして宮木電機社長の宮木男也の3人が出資を決めます。西枝は家屋敷を抵当に入れて銀行から資金を借り入れたそうです。3人は株を握って会社を支配しようとしたのではなく、稲盛という人間に賭けたのでした。

「今にきっと日本一、世界一」——仲間に語った船出の誓い

1959年、京都セラミック株式会社の創立記念式典が、間借りした本社工場の2階事務所で執り行われました。役員5名、幹部11名、新規採用17名の合計28名という小さな船出でした。式典の夜、稲盛は役員や幹部を前に「今にこの原町一になろう。原町一になったら西ノ京一の会社を目指そう。西ノ京一になったら中京一、京都一、日本一、そしてもちろん世界一だ」と語ったと伝えられています。資金も設備も乏しいなかで稲盛が拠り所にしたのは、苦楽を共にした仲間との「人の心と心の結びつき」でした。

フィリップス社の見本を手に——支えたカソードチューブ

創業間もない京セラに、松下電子工業からブラウン管部品カソードチューブの注文が舞い込みました。材料から成形、焼成、加工まで自社で開発しなければならない難しい製品でしたが、稲盛はフィリップス社の見本を手に開発に挑みます。もっとも困難だったのは極薄チューブの切断で、焼き上がった中空部に溶かしたワックスを流し込んで固め、それごと刃を入れるという方法を編み出して解決しました。完成したカソードチューブは、松下電子工業から「フィリップス社の製品より良い」という評価を受けたと伝えられています。

新入社員の団体交渉——「物心両面の幸福」が生まれた日

京セラ創業の目的は、稲盛自身の技術を世に問うことでした。ですが創業3年目の春、前年に採用した新入社員が、将来にわたる待遇の保証を求めて団体交渉を申し入れてきます。三日三晩に及ぶ話し合いの末、社員側は要求を撤回して会社に残りましたが、この出来事を機に稲盛は、経営とは従業員とその家族の生活を将来にわたって守ることだと気づきました。ここから「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」という京セラの経営理念が生まれています。

受注、10分の1に激減——雇用死守を誓った稲盛

1973年の第一次オイルショックで、京セラの受注高は10分の1にまで激減しました。稲盛は雇用は死守すると宣言したうえで、生産性の維持や全員営業、新製品開発など考えられる対策をすべて実行します。それでも需要の低迷は続き、創業以来の危機と判断した稲盛は、管理職の賃金カットに踏み切り、労働組合にも賃上げの凍結を提案するという苦渋の決断を下しました。社員はこの厳しい状況を受け入れ、業績の立て直しに一丸となって取り組みます。景気回復後、稲盛は前年の分も含めた大幅な昇給と臨時賞与で社員の努力に報いています。

「動機善なりや」——NTTに挑んだ第二電電

1984年の通信自由化に際し、稲盛は日本の高い長距離電話料金を下げたいと考えましたが、巨大なNTTへの挑戦には相当なリスクが伴いました。通信事業の専門技術者もいないなかで、稲盛は毎晩「通信事業を始めようとする動機は善なのか、そこに私心はないのか」と自らに問い続け、半年近く悩んだ末に参入を決意したと伝えられています。既存インフラを持たない第二電電は、山の頂上から頂上へパラボラアンテナの鉄塔を組んで東京・大阪間に電波を飛ばし、他の新電電と同時期に営業を開始しました。最も不利といわれた第二電電が、売上も利益も新電電3社のなかでトップに立ちました。

2兆3,000億円の破綻——無報酬会長が起こした逆転劇

2010年、日本航空は2兆3,000億円という事業会社として戦後最大級の負債を抱えて会社更生法の適用を申請しました。政府から再建を要請された稲盛は、高齢で他の仕事もあることを理由に報酬を一切受け取らずに会長へ就任します。巨額の赤字を抱えていた日本航空に、稲盛はJALフィロソフィ稲盛和夫がJAL再建の際、京セラの経営哲学をもとに作った、社員の心構えや行動指針をまとめたもの。とアメーバ経営稲盛和夫が考案した経営管理手法。組織を「アメーバ」と呼ぶ小さな単位に分けて部門ごとの収支を見える化し、社員一人ひとりに経営者のような意識を持たせる仕組み。を持ち込み、幹部から現場社員までの意識改革を進めました。その結果、営業利益は1,884億円まで回復し、世界の航空業界でも有数の高収益企業に生まれ変わった日本航空は、2012年に再上場を果たしています。

有機基板の誤算——投資家が突きつけた「戦略なき多角化」

生成AI需要の拡大でサーバー市場の主役が汎用機からAIサーバーへ急速に移るなか、京セラの半導体部品有機材料事業は対応が遅れ、需要見通しを外しました。積極増強投資の方針も裏目に出て、大規模な減損の計上を迫られ、半導体関連部品事業は赤字に転落します。香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントはこの苦戦を名指しし、京セラが2015年の時点で通信機器や太陽光発電事業の見直しを求められながら受け入れなかった結果だと批判したと報じられています。京セラは生産体制の見直しなど構造改革を発表しましたが、投資ファンドは撤退を含むより踏み込んだ対応を求め続けています。

構造改革の実り——業績が底を打った

2026年3月期、京セラの営業利益は1,181億円となり、過去最高水準に達しました。苦戦していた半導体有機基板事業でも人員再配置による固定費の圧縮が進み、データセンター向け半導体需要の回復が追い風になっています。

投資ファンドからの事業再編要求はなお続いていますが、京セラはおよそ2,000億円規模の事業売却を検討し、株式売却などを原資にした自社株買い企業が自社の発行済み株式を市場などで買い戻すこと。も計画しています。創業以来一度も赤字を出していない実績を守りながら、事業の入れ替えによる立て直しが進んでいます。