社名は創業者「石橋」を逆さに読んだ、ただの言葉遊びだった。 仕立物屋から一代でゴム底の靴、そして自動車の車輪へと商いを広げていった。 米ファイアストン買収という大博打を経て、幾度もの危機を乗り越えてきた。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.3倍
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事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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仕立物屋を継いだ17歳——足袋専業への転換
石橋正二郎が家業の仕立物業「志まや」を引き継いだのは、久留米商業学校を卒業したばかりの17歳のときでした。兄が一年志願兵として入隊していたため、経営はほぼ正二郎ひとりに委ねられます。彼は種々雑多な注文に応じる仕立物業に見切りをつけ、足袋の専業に転換。徒弟制度を廃止して職人に給料を払い、勤務時間を短くして月に定休日を設けるという、当時としては思い切った待遇改善に踏み切りました。父の同意を得ない決断で、厳しく叱責されたと伝えられています。
1912年に初めて上京した正二郎は自動車に試乗し、その宣伝効果に着目します。九州にまだ自動車が1台もなかった時代に自ら1台を購入すると、「馬のない馬車が来たぞ」と評判になり、足袋の宣伝に大きな効果をもたらしたそうです。足袋の製造工程を映画にして各地で無料上映するなど、当時としては先端的な宣伝手法も取り入れていました。
壊して持ち込む客——それでも交換をやめなかった
国産タイヤは初期不良が相次ぎ、無償交換に応じたところ、故意にタイヤを壊して返品を求める購入者まで現れたと伝えられています。それでも交換をやめず、返品の山を抱えながら踏みとどまりました。
ブリヂストンは原料の配合と加硫工程の見直しを地道に続け、ようやく品質不良を克服します。優良品としての認定を受けると自動車メーカーへの納入も始まり、危機を脱していきました。生まれたばかりの会社が、破産に瀕しながらも品質改善だけで立て直した経験は、その後の土台になりました。
「語呂が悪い」——逆さに読んで生まれた社名ブリヂストン
社名の由来は、創業者の姓「石橋」の英訳です。正二郎は自著で「私の姓石橋を英訳し、STONE BRIDGEとなるが、これでは語呂が悪いので逆さにしてBRIDGESTONEと決定した」と振り返っています。日本語では「ブリヂストン」と表記されるこの社名には、石造りの橋の要となる「要石(キーストーン)」の響きも重なっているとされます。
「時間を買った」——ピレリとの争奪戦を制した対米買収
1988年、ブリヂストンは過半数出資の合弁をファイアストンへ申し入れました。伊ピレリが対抗してTOB買収したい会社の株式を、価格・期間・株数をあらかじめ公表して市場外で買い集める手法。を仕掛けると、ブリヂストンも1株80ドルで対抗オファーを出し、ピレリが買収を断念します。同年のうちに買収は完了し、ファイアストンは完全子会社になりました。
この買収を、当時の家入昭社長は後年、「独自の販売網拡大には長い時間と労力がかかり、ファイアストンをピレリに取られたら永久にチャンスを失うと考え、時間を買ったのです」と振り返っています。ブリヂストンは、欧米に多数の工場と販売店網を一度に手に入れる賭けに出ました。
買収がもたらした誤算——老朽設備とGM離れ
ファイアストンの買収は世界最大級のタイヤ生産体制をもたらした一方、大きな誤算も抱え込みました。設備の老朽化は想定以上で、買収からほどなく15億ドルの追加投資を迫られています。追い打ちをかけたのが、大口顧客だった米ゼネラル・モーターズ(GM)による供給打ち切りの通告でした。ビッグスリー向けの納入シェアも、大きく急落したと報じられています。
家入社長は当時、ファイアストンのネビン会長に経営を任せた理由について、「われわれが即日乗りこんで切り盛りできればよいのだが、国の数も多いし、組織も大きいし、彼に経営を任せ、徐々に変えていくことにした」と、日本側の海外要員の限界を語っています。多額の資金と技術者を投じた再建は簡単には進まず、ファイアストン事業がようやく黒字に転じたのは、買収から14年後の2002年のことでした。
24時間操業の代替要員——急増した欠陥タイヤ
1994年、会社側が8時間交代制から12時間交代制・週7日操業への切り替えを求めたことをきっかけに、米イリノイ州ディケーター工場で労使交渉が決裂し、労働組合が長期のストライキに入りました。会社側は組合員より3割低い賃金で代替要員を雇い入れ、24時間操業を続けたと伝えられています。
米プリンストン大学などの研究チームが後にこの工場の生産データを分析したところ、ストライキ期間中に作られたP235サイズのタイヤは、他の工場のタイヤに比べて欠陥による保証請求が発生する確率が最大で15倍に達していたことが分かりました。研究チームは、この時期の欠陥タイヤが原因で40人以上が死亡した可能性があると推計しています。2000年、このディケーター工場で作られたタイヤを含む約1,440万本が、米フォード「エクスプローラー」の横転事故を受けて自主回収の対象となりました。
「正しいことを行う」——フォードとの対立が生んだ合言葉
米議会の公聴会で、フォードとファイアストンはタイヤの欠陥をめぐって激しく対立しました。フォードは「タイヤに原因がある」と主張し、ファイアストン側はフォードが指定した空気圧の低さなどを要因として挙げます。100年近く続いたフォードとの取引に、ファイアストンは自ら幕を引く決断を下しました。
新たに社長へ就いた渡邉惠夫は「最高の品質で社会に貢献」という原点への回帰を掲げ、「Making It Right(正しいことを行う)」を合言葉に信頼回復に取り組みました。老朽化していたディケーター工場はその後閉鎖されています。決着までに5年を要しましたが、対立を続けてきた両社はふたたびビジネス上の関係を築けるようになったと報じられています。
初優勝の熱狂から一転——ブリヂストンが下ろしたF1の幕
ブリヂストンは1997年、F1に本格参戦しました。翌年にはマクラーレン・メルセデス勢の活躍もあって初優勝を挙げ、その年のうちにドライバーズ・コンストラクターズ両タイトルを獲得しています。仏ミシュランが参戦していた期間には、フェラーリとミハエル・シューマッハの組み合わせでドライバーズタイトルを4回獲得するなど、世界の頂点を争い続けました。
ブリヂストンは2010年シーズンを最後にF1から撤退しました。その前年には撤退方針をすでに発表しており、世界中のチームの足を支えてきたタイヤメーカーの撤退は、F1界に大きな衝撃を持って受け止められ、「惜しまれつつの撤退」と報じられました。
スカイラインの名付け親——御料車も生んだタイヤ屋
石橋正二郎は、日産と合併する前のプリンス自動車工業(前身は富士精密工業)の会長も務め、名車「スカイライン」の名付け親だったと伝えられています。1957年に誕生したこの車は、当時ブリヂストンが「ブルースカイ」「スカイウェイ」など空にちなんだ名前でゴルフボールを販売していたことから、山並みと青空を区切る稜線をイメージして名づけたとされています。
昭和天皇や上皇陛下(当時の天皇陛下)が公務で使われた御料車「プリンス・ロイヤル」も、正二郎が会長を務めた会社が開発したクルマでした。タイヤの会社の創業者が、日本を代表するクルマの名前を選んでいたという事実は、意外と知られていません。
印象派の収集家——石橋正二郎が遺したアーティゾン美術館
石橋正二郎は印象派を中心とする美術品の熱心な収集家としても知られていました。東京・京橋の本社ビルに「ブリヂストン美術館」を開館させ、自らのコレクションを公開したのは1952年のことです。この美術館はのちに「アーティゾン美術館」と改称されました。
郷里の久留米市には、音楽ホールや図書館などを備えた総合文化施設「石橋文化センター」を寄贈しました。タイヤ会社の創業者が遺したのは、道路を走るタイヤだけでなく、こうした文化施設の数々でもありました。
