毎日、世界中で「1株いくら」という値段がスマホの画面に表示されます。 それは当たり前ではありません。400年前、株の値段を知る手段は噂とコーヒーハウスの立ち話しかありませんでした。 誰が値段を決め、誰でも見られるようにし、誰でも参加できるようにしたのか。 「会社を作る仕組み」ではなく「株を売り買いする仕組み」そのものが育っていった物語です。

この記事でわかること
  1. 400年前は「1株いくらか」を知る手段が、取引所に足を運ぶか噂を聞くかしかなかったこと
  2. 相場表・協定・先物・電信・コンピューターと、値段を見えるようにする工夫が積み重なってきたこと
  3. それでも「情報を早く得られる人とそうでない人の差」は、今もゼロにはなっていないこと
CHAPTER 01

値段は、どこにも書いていなかった

400年前、株を売りたくなった人は「1株いくらか」をどうやって知ったのか

手段は3つだけ——取引所に足を運ぶか、噂を聞くか、仲買人に直接尋ねるか。値段が公開されていない市場では、情報の差がそのまま利益の差になりました。

1602年、オランダで世界初の株式会社とされるオランダ東インド会社(VOC)が生まれました。誰でも出資でき、出資した分しか損をしない。この会社の仕組みについては、すでに別の発掘ノートで詳しく書きました。

ここで考えたいのは、その先の話です。VOCの株を持った人は、その株を売りたくなったらどうしていたのでしょうか。「1株いくらで売れるのか」を、いったい誰が、どうやって知ることができたのか。これは会社の仕組みとはまったく別の問題でした。

VOCの本拠地アムステルダムには、株式のほか現物商品・為替・海上保険まで扱う取引の場が生まれていました。ですが、そこで成立した値段が街の外まで届くには時間がかかります。当時、株の値段を知る手段は、取引所に足を運ぶか、噂を聞くか、仲買人に直接尋ねるかのどれかしかありませんでした。

値段が公開されていない市場では、情報を持つ者と持たない者の差がそのまま利益の差になります。取引所に毎日通える大商人と、遠く離れた田舎の出資者とでは、同じ株を持っていても見えている世界がまったく違いました。この情報の差をどう埋めていくかが、その後400年にわたる株式市場の歴史そのものになっていきます。

値段が「見えるようになる」までの道のり 1602 アムステルダム 取引の場が誕生 1688 世界初の 株式市場解説書 1698 壁に貼られた 手書きの相場表 1730 大坂・堂島 先物を公認 1792 ボタンウッド協定 NYSEの起源 1867 ストックティッカー 値段が全国へ 1971 NASDAQ 床のない取引所 どれも「値段を、その場にいない人にも見えるようにする」ための工夫だった
この記事は、この7つの点を順にたどります
豆知識

VOCの株を巡っては、株を持たないまま将来売る約束をする取引まで行われていました。値段が公開されていない場所ほど、こうした駆け引きは陰でこっそり進みやすくなります。会社の仕組みそのものは、別の発掘ノート「オランダ東インド会社」で詳しく取り上げています。

裏を返せば、株式市場の歴史とは「会社をどう作るか」の歴史であると同時に、「値段という情報を、どこまで多くの人に届けるか」を巡る歴史でもありました。誰が最初に値段を知り、誰があとから知るのか。この順番の差こそが、株式市場が生まれた瞬間から抱えていた根本的な課題です。

CHAPTER 01
  • 400年前、株の値段を知る手段は3つしかなかった
  • 値段が見えない市場では、情報の差が利益の差になる
  • 以後400年の工夫は、すべてこの差を埋める方向に働いた
CHAPTER 02

世界初の株式市場解説書——デ・ラ・ベガが書いた「駆け引きの正体」

取引所の中で何が起きているかを、最初に外へ書き出したのは誰か

1688年の『混乱の中の混乱』は、世界で初めて証券取引所の中身を解説した本とされています。オプションも価格操作も、300年以上前にすでに書かれていました。

1688年、アムステルダムで一冊の本が出版されました。書いたのは、スペイン生まれのユダヤ系商人、ジョセフ・ペンソ・デ・ラ・ベガ。書名は『Confusion de Confusiones(コンフュージョン・デ・コンフュージョネス、「混乱の中の混乱」)』。世界で初めて、証券取引所の中身を詳しく解説した本とされています。

豆知識

デ・ラ・ベガ自身、株式投機に深く関わった人物で、破産と再起を繰り返したとも伝えられています。本は哲学者・商人・株主という3人の登場人物による対話形式で進み、堅い解説書ではなく読み物として楽しめる作りになっていました。

本の中身は驚くほど現代的です。プット・コール(今でいうオプション取引)、複数の仲買人が結託して価格を操作する「プール」、相場操縦——300年以上前の本に書かれている駆け引きは、今の株式市場のニュースで目にする話とほとんど変わりません。こうした慣行は、この本の解説記事の中で「現代の取引所でも依然として存在する」と評されるほどです。

ここがポイント

デ・ラ・ベガは執筆の動機の一つとして、取引所という商売そのものは正直で役立つ仕組みだと擁護しつつ、そこにはびこる不誠実なやり口には注意を促す、という点を挙げています。取引所を守りながら、そこに巣食う不正から読者を守ろうとする——この二面性が、株式市場という場所の本質を突いていました。

なぜこの本が重要なのでしょうか。それは、株の値段がどう動くか、誰がどんな駆け引きをしているかを、初めて「文章」として広く共有したことにあります。取引の実態がその場に居合わせた人だけの秘密ではなくなり、本を読めば誰でも取引所の仕組みを知ることができるようになったのです。

CHAPTER 02
  • 1688年、取引所の中身が初めて本になった
  • 書かれていた駆け引きは、今とほとんど変わらない
  • 「その場にいた人だけの秘密」が、文章になって外へ出た
CHAPTER 03

コーヒーハウスの壁に貼られた紙——ロンドンで生まれた「相場表」

「誰かに聞かなくても値段が分かる」状態は、どうやって生まれたのか

1698年、仲買人ジョン・カスタインが値段の一覧をコーヒーハウスの壁に貼り出しました。ロンドン証券取引所は、この一枚の紙を自らの出発点として公式に紹介しています。

舞台はアムステルダムからロンドンへ移ります。17世紀後半のロンドン、シティの一角にあるチェンジ・アレーという路地には、コーヒーハウスが立ち並んでいました。コーヒーを飲みながら商談をする場所として人気を集め、その中の一軒、ジョナサンズ・コーヒーハウスが、株式仲買人たちのたまり場になっていきます。

1698年、ジョナサンズに出入りしていた仲買人ジョン・カスタインが、あることを始めます。株式や商品の値段を一覧にした紙を、コーヒーハウスの壁に貼り出したのです。表のタイトルは「The Course of the Exchange」、いわば手書きの日刊相場速報でした。特定の誰かに聞かなくても、壁の紙を見れば値段が分かる——当時としては画期的な仕組みです。

豆知識

ロンドン証券取引所グループ(LSEG)は、この一枚の紙を自らの歴史の出発点として公式サイトで紹介しています。カスタインが始めた相場表の発行はその後も形を変えて続き、今も証券取引所の公式な価格情報として受け継がれています。

値段が壁に貼り出されるようになると、コーヒーハウスは単なる社交の場から、継続的に人が集まり値段を確かめ合う場所へと変わっていきました。この習慣は受け継がれ、1801年、ロンドンで初めての「規制付き」の取引所が誕生します。これが現在のロンドン証券取引所の始まりです。

① 一人の思いつきから始まった1698カスタインが相場表を壁に貼り出した
② 正式な組織になった1801ロンドンで初めての規制付き取引所が誕生
③ 制度になるまでの時間約100個人の工夫が公式な仕組みへ格上げされるまで

コーヒーハウスの壁に紙を貼るという素朴な工夫から、正式な規則を持つ組織へ。100年余りかけて、値段の公開が個人の善意から制度へと格上げされていった過程が、ここにあります。

CHAPTER 03
  • 1698年、壁に貼られた一枚の紙が相場表の始まりだった
  • 「聞かなくても分かる」状態が、市場の性格を変えた
  • 個人の工夫が制度になるまで、100年余りかかった
CHAPTER 04

すずかけの木の下の約束——ウォール街が「自分たちでルールを作った」日

ルールのない市場で大きな相場崩れが起きたとき、人々は何をしたのか

1792年、24人の仲買人がウォール街の木の下でわずか2つの文の協定に署名しました。これがニューヨーク証券取引所の公式な起源とされています。

大西洋を渡り、舞台はアメリカへ移ります。18世紀末のニューヨークでは、証券の取引を律するルールがまだ何もありませんでした。1791年から1792年にかけて、政府債の価格が数週間で30%も下落する大きな相場崩れが起きます

きっかけの一人は、投機家ウィリアム・デュアー。借金を重ねて取引を続けていましたが、資金が尽きて支払い不能に陥りました。ルールなき市場では、一人の破綻が連鎖的な信用不安に直結します。多くの取引が反故にされる事態となりました。

混乱を受けて、1792年の春、24人の株式仲買人と商人がウォール街のすずかけ(ボタンウッド)の木の下に集まり、短い協定に署名します。これが「ボタンウッド協定」です。内容は、互いにのみ取引すること、公共の利益を代表すること、そして手数料の安売り競争ではなく株式の実質的な価値を反映した価格で取引すること。わずか2つの文で構成された、驚くほど短い約束事でした。

① 集まったのは、たった24人24木の下で協定に署名した株式仲買人と商人
② 約束はごく短かった2つの文これがニューヨーク証券取引所の公式な起源とされる
③ 銘柄はここまで増えた300種類超南北戦争が終わる頃に取引されていた株式・債券

当時取引されていた主な銘柄は、保険会社の株、ニューヨーク銀行の株、そしてアレクサンダー・ハミルトンが発行した国債でした。まだ「上場企業」という概念すら育っていない時代です。それでも仲買人たちは、規制がないなら自分たちでルールを作るしかないと考え、行動に移しました。メンバーであり続けたければルールに従う——この単純な仕組みが、信頼を積み上げる土台になっていきます。

協定から25年後の1817年、仲買人たちはあらためて正式な定款を作り、「ニューヨーク株式・取引所委員会」という組織に生まれ変わります。拠点として借りたウォール街40番地の一室では、朝と午後の2回、決まった時間に取引の集まりが開かれました。委員長が一つずつ銘柄の名前を呼び上げると、仲買人たちは自分の椅子に座ったまま、買いたい値段・売りたい値段を口々に叫んで応じます。

豆知識

このときの「椅子」が、今も証券取引所の会員資格を指す「シート(seat)」という言葉の由来になっています。

取引の場そのものが、口約束から「決まった時間・決まった手続き」を持つ制度へと育っていった瞬間でした。

CHAPTER 04
  • 規制のない市場で、一人の破綻が全体の信用不安になった
  • 24人が自主的にルールを作り、それがNYSEの起源になった
  • 場所と時間が決まったことで、取引は制度になった
CHAPTER 05

帳面の中で先に売り買いする——大坂・堂島が生んだ「先物」という発想

同じ頃の日本では、値段を巡ってどんな工夫が生まれていたのか

1730年、江戸幕府が大坂・堂島で2種類の米取引を公認しました。そのうち帳合米商は、世界的に見ても組織だった先物取引の先駆けとされています。

ヨーロッパやアメリカだけが、値段を巡る工夫を重ねていたわけではありません。同じ頃、日本の大坂(現在の大阪)でも独自の仕組みが育っていました。舞台は米です。

江戸時代初期、米の取引は大坂の土佐堀川沿いにある「北浜米市」で行われていました。元禄10年(1697年)頃、交通の混雑と新しい街の振興を理由に、取引の場は堂島へと移されます。そして享保15年(1730年)、江戸幕府はここで行われていた2種類の取引を正式に公認しました。

SPOT正米商

  • 実際の米切手(米の引換券)を売買する
  • 今でいう現物取引

FUTURES帳合米商

  • 帳面の上だけで先の米を売買する
  • 今でいう先物取引

堂島米市場は、日本における取引所の起源であるとともに、世界的に見ても組織だった先物取引所の先駆けとされています。帳合米商は、実際の米そのものをやり取りするのではなく、帳面の上で将来の値段を見込んで売買する仕組みでした。これは、ロンドンやアムステルダムで育っていた株式の先渡し取引と、驚くほど似た発想です。

ここがポイント

堂島で成立した米の相場は、日本全国の米価の基準になりました。値段を決める場所が一つに定まると、その値段が離れた土地の取引まで動かす——ロンドンやニューヨークで起きたことと同じ現象が、日本でも起きていたことになります。

場所も文化もまったく違うのに、人間が「将来の値段」を巡ってたどり着く工夫は、驚くほど似通っていました。実物を持たないまま、将来の値段を先に決めて帳面の上で取引するという発想。これは、のちの世界中の先物市場・証券市場に共通する骨格になっていきます。堂島は株式そのものではありませんが、「価格をどう決め、どう取引に落とし込むか」という同じ問いに、日本独自の答えを出した場所でした。

CHAPTER 05
  • 1730年、幕府が現物と先物の2種類の取引を公認した
  • 帳合米商は、組織だった先物取引の先駆けとされる
  • 離れた文化でも、たどり着いた工夫はよく似ていた
CHAPTER 06

値段が全国を駆け抜けた日——ストックティッカーと日本の取引所

取引所で決まった値段は、どうやって遠くの投資家まで届くようになったのか

1867年のストックティッカーが、伝令が走って伝えていた値段を全国へ自動で送れるようにしました。同じ頃、日本でも東京と大阪に取引所が生まれます。

19世紀後半、アメリカでもう一つの発明が、値段の伝わり方を大きく変えます。1867年、電信技士だったエドワード・キャラハンが、ニューヨークで初めての「ストックティッカー」を発表しました。電信機を改造し、株価を細長い紙テープに自動で印字する機械です。

それまで、取引所のフロアで成立した値段を仲買人のオフィスまで伝えるのは、走って知らせる伝令の仕事でした。キャラハンは、証券取引所の周りを息を切らして走り回る伝令の少年たちを見かけたことがきっかけで、この通信システムの改善を思い立ったと伝えられています。

それまで 取引所のフロア 走って知らせる伝令 街の中の仲買人 値段が届いたのは、走って行ける範囲まで 1867年 ストックティッカー登場 取引所のフロア 電信+紙テープ 全国の仲買人・投資家
伝令の足が届く範囲から、電信が届く範囲へ

ティッカーの導入によって、株式・債券・商品の値段を、取引所から全国の仲買人や投資家へ直接送れるようになりました。マンハッタンの外にいる投資家にも、初めてほぼリアルタイムの価格が届くようになったのです。

豆知識

「ティッカー」という名前は、印字の歯車が立てる「チッ、チッ」という音に由来します。

同じ頃、日本でも取引所が生まれた

1878年、渋沢栄一が発起人の一人となり、東京株式取引所(現在の東京証券取引所)が開設されます。渋沢は生涯で約500の企業の創設・経営に携わり、「資本主義の父」と呼ばれる人物です。小さな資本を集めて大きな資本にするという彼の構想は、株式取引所という制度そのものにも表れていました。同じ1878年、大阪でも大阪株式取引所が開業します。当時、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭を務めていた実業家の五代友厚も、その設立に関わった人物の一人です。

ただし、制度が整ってもすぐに市場がにぎわったわけではありません。開設当初は取引の主体となる株式会社そのものが少なく、株の売買はまだ低調でした。東京株式取引所で株式の流通が本格的に活発になるのは、開設から30年以上あとの1910年代以降だったとされています。仕組みを作ることと、その仕組みが実際に機能することの間には、想像以上の時間差があったのです。

CHAPTER 06
  • ティッカーが、値段を全国へ自動で送れるようにした
  • 同じ頃、東京と大阪にも株式取引所が生まれた
  • 仕組みができてから市場が育つまでには、30年以上かかった
CHAPTER 07

コンピューターの中の取引所——そして、今の私たちにつながる話

400年の工夫の先に、いま私たちが手にしているものは何か

1971年のNASDAQは、取引の「場所」そのものをなくしました。ただし情報の差がゼロになったわけではありません。

20世紀に入っても、株式市場の「仕組み」の進化は止まりませんでした。1971年、アメリカでNASDAQが誕生します。全米証券業協会(NASD)が設立したこの市場は、物理的な取引フロアを持たない、コンピューターによる新しい形の株式市場でした。

それまでの店頭市場での取引は、対面や電話による注文が中心で、処理は遅く価格の透明性にも欠けていたとされています。NASDAQが画期的だったのは、株式を売りたい人と買いたい人を、床のある取引所ではなくコンピューター上で直接つなげてしまったことでした。仲買人が集まる「場所」そのものをなくす、という発想の転換です。取引の処理速度と正確性が上がり、市場参加者はより信頼できる価格情報を、より早く目にできるようになりました。

ここまでの400年近い歴史を振り返ると、株式市場が積み重ねてきた発明は、すべて「値段の透明性」と「参加のしやすさ」を広げる方向に働いてきたことが見えてきます。コーヒーハウスの壁に貼られた相場表も、コンピューターの中の気配値も、「値段を、その場にいない人にも分かるようにする」という同じ問いへの答えでした。

見落としやすい点

ただし、この歴史は「安心して株を買える時代が来た」という話で終わりません。デ・ラ・ベガが警告した価格操作の手口も、ボタンウッド協定が防ごうとした信用の崩壊も、姿を変えながら今の市場に存在しています。情報を早く正確に得られる人とそうでない人の差は、400年経った今もゼロにはなっていません。むしろ、値段が公開されればされるほど、その情報をどう読み解くかという新しい差が生まれます。

それでも、コーヒーハウスの壁に紙を貼ったカスタインから、ウォール街の木の下で約束を交わした24人の仲買人、堂島で帳面に数字を書き込んだ商人たち、電信の歯車を回したキャラハンまで——「値段を見えるようにし、誰もが参加できるようにする」というただ一つの工夫の積み重ねが、今スマートフォンの画面に表示される株価の背景にあるのです。

投資家として株式市場と向き合うとき、この歴史から見えてくるのは「値段は誰かが整えた仕組みの上にしか存在しない」という単純な事実です。相場表・取引所・電信・コンピューター——どの発明も、値段という情報を独占していた一部の人から、より多くの人へと開放する方向に働いてきました。今スマートフォン一つで株価を確認できるのは、400年かけて積み上げられた発明の連鎖の、一番新しい成果にすぎません。

CHAPTER 07
  • NASDAQは、取引の「場所」そのものをなくした
  • 400年の発明は、すべて値段を開く方向に働いてきた
  • それでも情報の差は残り、読み解く力が新しい差になる

この記事の3行まとめ

  1. 株の値段が「誰でも見られるもの」になるまでに、400年かかった
  2. 相場表・協定・先物・電信・コンピューターは、すべて同じ問いへの答えだった
  3. 情報の差は今もゼロではなく、そこが投資家の向き合う場所になっている
トレ助

【トレ助のコメント】

1698年、ジョン・カスタインという仲買人が、コーヒーハウスの壁に株価の一覧表を貼り出したんだ。たったそれだけのことなんだけど、これが今のロンドン証券取引所の出発点だと公式に紹介されてる。値段を見えるようにするって、実は誰かが「よし、貼り出そう」って決めた瞬間があったんだよね。今スマホで株価をチェックできるのも、その延長線上にあるんだ。