大阪の借家で始まった、3人だけの町工場。 それは家電の王国になり、テレビで大敗し、いま電池とB2Bの会社へ姿を変えつつある。 「松下」も「ナショナル」も捨てたこの会社は、何を残してきたのか。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.1倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
「家電の会社」というイメージは、これからのパナソニックを見誤らせるかもしれません。成長投資の軸足は、車載電池やデータセンター向け蓄電、AIサーバー向け部材といったB2B領域に移りつつあります。ニュースを追うときは「グループのどの事業会社の話か」を分けて眺めると、この会社に何が起きているかが見えやすくなりそうです。
古電球のねじ込み——市価より3割安い1号製品
創業の年に松下幸之助自身が開発した1号製品が、改良アタッチメントプラグでした。電灯用ソケットから電気をとるための配線器具で、ソケットにねじ込んで使うため、ねじ込み部分の精度が品質の要になります。幸之助は一流メーカーの古電球のねじ込み部分を再利用しました。一流品だから精度は高く、リユースだからコストは下がります。高品質で市価より3割安い製品が出来上がりました。
続いて幸之助はさまざまなプラグやソケットを考案していきます。巷で「二股ソケット」と呼ばれた二灯用クラスターもその一つで、電灯しか電源のなかった時代の家庭で、明かりと電化製品を同時に使えるようにしました。
「実際に灯してみてくれ」——問屋に嫌われたランプの逆転
1923年、幸之助は自転車用の電池式ランプの開発に着手しました。電池と豆球の組み合わせを変えて100回近く試作を繰り返し、かつてない点灯時間の砲弾型電池式ランプを完成させます。ところが自信をもって問屋に持ち込むと、総スカンを食らってしまいました。当時の電池式ランプには粗悪品が多く、問屋はその先入観に染まっていたのです。
在庫の山を前に、幸之助は思い切った手に出ます。問屋がだめなら小売店に分かってもらおうと、完成品を無償で配布し、「実際に灯してみてくれ」と実物宣伝を決行しました。性能を認めた小売店から火が付き、ランプはヒットします。その後の1927年、新型ランプに幸之助が初めて用いた商標が「ナショナル」。国民の必需品に育てたい、という思いを込めた命名でした。
事業部制——任せることで経営者を育てた1933年
1933年、幸之助は工場群を3つの事業部に分け、ラジオ、ランプ・乾電池、配線器具などの製品分野ごとに、研究開発から生産販売、収支までを一貫して担わせる独立採算体制を敷きました。当時、こうした組織をもつ会社は他になく、画期的な機構改革でした。幸之助はその狙いを「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」だと述べています。
第1事業部を任されたのは、創業時から共に働いてきた義弟の井植歳男でした。のちに三洋電機を創業する人物です。井植のもとでラジオは大ヒットを記録し、「ラジオはナショナル」と言われるまでになりました。任せると、人は存分に創意と能力を発揮する——事業部制はこの体験から生まれた制度でした。
「共存共栄」の色紙200枚——熱海会談、3日目の涙
1964年、東京オリンピック景気の反動で電機業界の成長は鈍化し、松下電器は1950年以来初の減収減益に沈みました。赤字の販売会社・代理店が激増するなか、会長に退いていた幸之助は、全国の販売会社・代理店の社長を熱海に招集します。「今回の会合は日にちを切らない」「議題はあえて用意しない」。幸之助は当日一人ひとりに渡すため、「共存共栄」と書いた色紙200枚を毎日少しずつ書き溜めて会談に臨みました。
会議は白熱し、苦しい経営実態の訴えと苦情が噴き出します。3日目、幸之助は立ち上がり、原因の半分は自社が好況に慣れて安易になったことにあるとして、まず自らが改めると表明しました。その目に涙が光っていたと社史は記録しています。とげとげしかった会場は粛然となり、互いの努力と協力を誓い合って会談は幕を閉じました。
「松下の大坪として最後」——創業の名を外した社名変更
2008年、創業90周年の節目に、松下電器産業株式会社はパナソニック株式会社になりました。本社屋上の看板から「松下電器」の表記が外され、日本の白物家電を支えた「National」ブランドも「Panasonic」への切り替えが始まります。
新製品発表会の壇上で、大坪文雄社長は「松下の大坪として、皆さんの前に現れる最後の機会になります」と語ったと報じられています。狙いは、パナソニック・松下・ナショナルの3つに分散していた価値を1つに結集し、世界で戦えるブランドを作ること。創業者の名を社名から外すという決断は、創業家への敬意とグローバル戦略を天秤にかけた末の選択でした。
尼崎の3工場——プラズマに賭けた約4,000億円
2000年代、薄型テレビの主導権を賭けて、パナソニックは兵庫県尼崎市の湾岸部にプラズマパネル工場を相次いで建設しました。総投資額は約4,000億円。2010年度には年間752万台を生産する世界最大のプラズマパネル工場群になります。ですが市場は液晶に流れ、テレビ事業は赤字が続きました。
2012年3月期に7,721億円、2013年3月期に7,542億円と、2年連続で巨額の純損失を計上します。2013年の暮れにプラズマパネルの生産を終え、翌年の春までに尼崎の3工場は事業活動を停止しました。この敗戦を境に、パナソニックはテレビの覇権争いから距離を置き、車載電池や企業向け事業へと軸足を移していきます。
ギガファクトリー——テスラと組んだ電池の賭け
2014年、パナソニックは米テスラと、「ギガファクトリー」と呼ばれる大規模電池工場の建設で協力することに合意しました。テスラが土地・建物・設備を用意し、パナソニックは円筒形リチウムイオン電池セルの生産と、そのための設備投資を担う分担でした。テレビで負けた直後の会社にとって、電気自動車の電池は次の柱への大きな賭けでした。
この電池事業は現在のパナソニック エナジーに受け継がれ、車載電池に加えて、生成AIブームで急増するデータセンター向け蓄電システムという新しい市場を支えています。
