パン、うどん、パスタ。原料の小麦粉を日本でいちばん多く作る会社が日清製粉グループ本社だ。 1900年、群馬・館林の小さな工場から始まり、海外企業の買収で世界に事業を広げてきた。 一度は上場以来はじめての赤字を経験しながら、いま稼ぐ力を取り戻しつつある。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.6倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
恩師のひと言で製粉を選んだ——半年の欧米視察が根幹に
正田貞一郎が製粉業を選んだのは、自分ひとりの思いつきではありませんでした。経済学者だった恩師・土子金四郎に相談したうえで、この道に進むことを決めています。
創業から十数年後、正田は半年近くをかけて欧米の製粉業を見て回りました。のちに本人が経営の根幹になったと語るほど、この視察は大きな意味を持ちます。採用の面接にも自ら座り、学閥ができることを避けたのも、外の世界を自分の目で確かめる姿勢の表れでした。この姿勢が、小さな製粉所を国内最大の製粉会社へ押し上げていきました。
「日清製粉」——あとから来た会社が名前を引き継いだ
横浜には先に「日清製粉株式会社」という会社がありましたが、経営がうまくいかず苦しんでいました。1907年、正田貞一郎の館林製粉がこの会社を合併し、社名をそのまま引き継いで日清製粉株式会社になります。
翌1908年、本社は館林から東京・日本橋小網町へ移りました。後発の会社が、先にあった同業他社の看板を受け継ぐという珍しい形の合併でしたが、この社名は証券コード2002の会社に引き継がれました。
鶴見に浮かんだ「海工場」——800万円の賭け
日清製粉が横浜・鶴見に建てた「海工場」は、港の岸壁へ船を直接着けて小麦を吸い上げる工場でした。投資額は800万円、資本金の3分の2にあたる額をたった1つの工場に注ぎ込む決断です。正田貞一郎はドイツ人技師を招き、周囲の反対を押し切ってこの工場を建てました。
敷地は1万6,000坪。1万トン級の船が着岸できる吸上装置と大型のサイロを備えました。港に直結した工場という発想は、同社が海外に製粉拠点を置くときの考え方に受け継がれました。
「日清キョーリン製薬」——医薬品事業40年に幕を下ろした
医薬品を手がける日清化学は、杏林製薬と50%ずつを出し合って「日清キョーリン製薬」を立ち上げるまでに育っていました。小麦粉の会社が薬をつくるという、意外な組み合わせです。
その日清キョーリン製薬は、2008年に杏林製薬へ吸収合併されます。ビタミン合成の技術から始まった挑戦は、40年あまりで静かに幕を下ろしたことになりました。
店内で焼くパンの誤算——豪州買収がつまずいた
2019年の豪州買収は、そこを足がかりに成長するアジアのベーカリー市場へ輸出を伸ばす計画とセットでした。買った相手は現地最大手のアライド・ピナクル。絵に描いたような一手に見えました。
ところが新型コロナウイルスの流行で、得意先だったインストアベーカリー(スーパーなどの店内で焼くパン売り場)の需要が落ち込みます。国境規制で輸出拡大の計画も動かせません。買った会社の価値そのものを見直さざるを得なくなり、買収額に見合う価値はないと認める判断に追い込まれました。
「マ・マー」——70年目に挑んだアルデンテ
1955年に生まれたパスタブランド「マ・マー」は、当初、女性の顧客をターゲットに開発されました。70年を経た2025年、日清製粉ウェルナは小麦粉のひき方を1年がかりで見直し、粗くひいたデュラムセモリナを増やしてアルデンテな食感を追求した商品にリニューアルしています。
同じ年、トルコの子会社で作った早ゆでスパゲティのヨーロッパ販売も始まりました。祖業の製粉技術を家庭の食卓向けに磨き続けている姿勢は、創業以来変わらない同社の性格を映しています。
