「シャウエッセン」で知られる日本ハムは、肉を育て、加工し、届けるところまで担う食品グループだ。 徳島の小さな加工場から始まり、食肉とプロ野球に事業を広げた。 いまは食べる場そのものをつくり、たんぱく質の価値を広げようとしている。
創業から現在へ — ストーリー
10年の歩み
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
食肉事業は農場から販売までを自社でつなぐ強みがある一方、飼料価格、為替、エネルギーコストの影響も受けます。今後は、販売量だけでなく、調達から販売までのコストをどこまで吸収できるかを見る視点が役立ちます。
海外拠点は日本向けの調達基地として機能してきましたが、独立した利益源になりにくい時期もありました。北米の加工品販売やアセアンでの連携が、海外事業を安定した柱へ変えられるかが一つの論点です。
家の没落と7人の工場——大社義規、焼失から事業再開へ
家の没落で旧制高松高商を中退した大社義規は、養豚組合で営業を経験しました。「こうなったら、おれが頑張って金を儲け、家を再興してやる」。その思いから、1942年に総勢7人の食肉加工場を徳島市で始めます。
ところが工場は戦災で焼失しました。大社は百十四銀行の支援を受け、1948年に再建。徳島ハムへの法人化を経て、焼け跡から事業をつなぎ直しました。
鳥清ハムとの合併——欧米勢に備え、一気に首位へ
米スイフト社など欧米大手の日本進出が迫り、徳島ハムには規模を広げる必要がありました。1963年、旭化成工業の宮崎輝社長の提案を受け、鳥清ハムと合併。社名を日本ハムに変え、業界首位へ躍り出ます。
日本ハムは欧米企業との資本提携を断る一方、技術は取り込みました。1969年、スイフト社とは技術提携だけを結びます。資本を守りながら技術を使うという選択でした。
奥様重役、食卓の声を経営へ
全国へ商品を広げるだけでは、家庭が何を求めているかは見えません。日本ハムは1969年に「奥様重役」制度を導入し、消費者の声を経営へ取り込む仕組みをつくりました。
その声を売り場へ運んだのが、約4,300人の営業マンによるルートセールス網です。商品をつくる側と食べる側をつなぎ、全国ブランドを支える流通体制へ育てました。
「そんな金がかかる事やめな!」——大社義規が球団を持った日
プロ野球球団を持つ計画には、同業者から「そんな金がかかる事やめな!」と反対の声が上がりました。それでも大社義規は意思を変えず、1973年に日本ハム・ファイターズを発足させます。
観客動員は当初の50万人から、1989年には245万人へ増えました。野球が全国に社名を運ぶメディアとなり、大社は後年「もし野球をやらんだら、このテンポでは成長していかなかった」と振り返っています。野球を通じた全国ブランド化でした。
1,000億円の豪州投資——自由化前に牧場から売り場をつなぐ
牛肉の輸入枠拡大が焦点となるなか、日本ハムは海外で肉を確保する道を探しました。1977年に米国のDay-Lee Foodsを買収しますが、当初は赤字でした。経営改革を進め、赤字だったDay-Lee Foodsを黒字へ転換します。
続いて豪州へ進み、牧場や食肉処理会社を買収しました。牛肉輸入自由化を前に、豪州を中心に3年間で1,000億円を投資。飼育・処理・加工・販売を一本につなぐ体制をつくり、自由化を迎えました。
偽装牛肉の焼却——発覚後も「偽装はない」
BSE対策の国産牛肉買い取り制度を、子会社の日本フードが悪用しました。輸入牛肉に国産ラベルを貼って申請し、社内で偽装が判明した後も庄司専務は社長へ報告しませんでした。さらに偽装牛肉を焼却し、発覚直後も会社は「偽装はない」と主張しました。不正は隠蔽へ進んでいたのです。
2002年、大社啓二社長は専務へ降格し、藤井良清が新社長に就任。創業家も代表権を返上しました。藤井体制は食品安全の整備を進めます。信頼回復には約10年を要し、2012年に売上高は初めて1兆円を超えました。経営体制を入れ替えて始めた再建でした。
「危機感の欠如」——井川伸久、構造改革へ
偽装事件後の日本ハムは統制を強めました。ですが約20年にわたってガバナンスを重く見るうち、事業本部の主体性と攻めの意識が薄れます。井川伸久社長は2023年、改革の遅れを「各事業本部の危機感の欠如」と表現しました。守りの強化が、新たな制約になっていたのです。
井川はウルグアイのBPUを売却損55億円で手放し、加工ラインの20%削減や海外拠点の再編へ進みました。掲げたのは、自前主義から脱して共創と挑戦へ向かう方針です。言葉だけでなく、事業を入れ替える改革が始まりました。
Fビレッジが球場の外へ広げたもの
球団経営は長く、試合と社名を全国へ届ける役割を担ってきました。日本ハムは2023年、ES CON FIELD HOKKAIDOを核に北海道ボールパークFビレッジを開業します。
ここで扱うのは球団経営だけではありません。官民学の事業者と、スポーツとエンターテインメントを組み合わせた街づくりを進めています。2026年3月期の年間来場者は約466万人。球団を持つ食品会社から、街の時間をつくる会社へ、事業の舞台が広がりました。
