冷凍食品最大手のニチレイは、戦時下の水産統制会社を前身に持つ。 1954年には日本初の調理冷凍食品「茶碗むし」を生み出し、社名から「水産」も「冷蔵」も消して4本の柱を持つ企業になった。 2026年、その物流網はサイバー攻撃で11日間止まった。
創業から現在へ — ストーリー
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
ニチレイの収益は、低温物流という社会インフラに近い事業に支えられています。2026年のサイバー攻撃で物流システムが止まった際、取引先約5,000社の商品供給に影響が広がったように、システムの復旧力やセキュリティ対応は、この会社の事業継続力を映す視点として参考になりそうです。
2026年、食品事業を担う2社(ニチレイフーズとニチレイフレッシュ)が統合されました。素材の調達から加工食品までを一体で手がける体制が、原材料価格の変動や海外展開にどう働くかが、今後の注目点になりそうです。
「16社」が現物出資した国策会社――帝国水産統制の誕生
戦時中の日本は、水産物の流通を国が一元的に管理する体制を敷いていました。1942年、日本水産・日魯漁業・林兼商店など関係16社が現物出資し、「帝国水産統制株式会社」が設立されます。各社が持っていた262の工場と39の販売所を、従業員ごと引き継いでの船出でした。
引き継いだ設備の対価は4,800万円とされ、1943年から7年に分けて支払う契約が結ばれています。設立に出資した16社には今の日本水産(ニッスイ)も含まれており、同じ国策会社を源流に持つという出自が、ニチレイの水産・冷凍事業のルーツになっています。
閉鎖機関の指定を免れた日――日本冷蔵、生き残りの理由
1945年、水産統制令が廃止され、帝国水産統制株式会社は存在根拠を失いました。復員者や外地からの引き揚げ社員が800人を超え、人員規模が事業規模を上回るという状態からの再出発です。同じころ、GHQは戦時中の統制会社を次々に「閉鎖機関」に指定し、解散させていました。
しかし帝国水産統制は、すでに純民間企業だったことや、食料供給という事業の公益性が認められ、閉鎖機関の指定を免れます。1945年、「日本冷蔵株式会社」として再出発し、初代社長には林準二が就きました。冷凍事業を中心にした食品事業の多角化が、その後の再建方針になっています。
南極の昭和基地とオリンピック選手村――冷凍食品の実験場
1954年、日本冷蔵は日本初の調理冷凍食品「茶碗むし」を発売しました。この技術は、やがて国を挙げた行事の舞台で試されることになります。
1956年、第一次南極観測隊が昭和基地で越冬するにあたり、日本冷蔵は69種、約20トンの冷凍食材を提供しました。冷凍野菜からうなぎ蒲焼、すしセットまでを届け、極地での食生活を支えています。1964年の東京オリンピックでは選手村食堂へ冷凍食材を供給し、1970年の大阪万博では「テラス日冷」を出店しました。国の大きな行事のたびに、冷凍食品の品質と量産体制が鍛えられていきました。
「20数億円」の損失――水産部門が迎えた最大の危機
1979年度、日本冷蔵の水産部門は取扱高が初めて1,000億円を超えました。ですが、その勢いは長く続きません。石油危機による漁労コストの上昇と200カイリ漁業規制、そして消費者の「魚離れ」が重なり、1980年度の取扱高は800億円まで落ち込みます。
在庫を整理するための値引きがかさみ、同社は経常利益に匹敵する「20数億円」という巨額の損失を計上しました。会社は、本社が一括していた仕入れ判断を各支社へ移す体制改革に踏み切ります。この危機への向き合い方が、のちの社名変更や新規事業への挑戦を後押ししていきました。
「日本冷蔵」だった会社が、ニチレイになった日
1980年の危機を経て、日本冷蔵は自社のイメージそのものを見直し始めます。1983年、社名変更のプロジェクトチームが発足しました。「日本冷蔵」という社名が冷蔵事業のイメージに会社を縛っているというのが、社内の見立てでした。
すでに消費者には、製品ロゴマークの略称として「ニチレイ」が浸透していました。1984年にシンボルマーク「N」を決定し、1985年、社名を「株式会社ニチレイ」に改めます。社名から「水産」も「冷蔵」も消え、フレッシュをテーマにした企業広告を全国紙に掲載しました。総合食品企業としての再出発を、社名そのもので示した瞬間でした。
ブラジルの農園でアセロラを作る、冷凍食品会社
1987年、ニチレイはアセロラドリンクを発売し、当時まだ知られていなかったこの果実を日本に広めます。
反応は事業化にまで発展しました。1990年にアセロラ原料ビジネスを本格的に始め、1991年にはブラジルに農業子会社ニアグロを設立しています。契約農家には苗木を無償で提供し、栽培指導や安定した買い付けで就農を支えました。冷凍食品の会社が、南米で果樹栽培そのものを手がけるようになった珍しい展開です。
「本当に炒める」を諦めなかった炒飯開発
2001年以前、冷凍炒飯といえば「中華風の混ぜご飯」に近いものが主流でした。大量の米を本当に炒めることは不可能とされていた時代です。ニチレイの開発陣は、評判の店で職人が炒飯を作る様子を観察し、油の温度や卵を入れるタイミングを一つずつ学んでいきました。
2001年、こうして生まれたのが「本格炒め炒飯」です。2015年にはさらに約30億円を投じて三段階炒め製法を導入し、卵でコーティングした米を高温の熱風で仕上げる工程を確立しました。北海道産の一等米を100%使う原材料へのこだわりもあり、この商品は冷凍炒飯カテゴリーで25年連続の売上首位を守り続けています。
5,000社を止めた11日間――サイバー攻撃という新しい危機
2026年、ニチレイグループのサーバーがサイバー攻撃を受けました。冷蔵倉庫の入出庫業務と冷凍食品の出荷業務が止まり、影響は取引先約5,000社に及びます。外食チェーンや給食施設への配送にも遅れが生じました。
会社は外部のセキュリティ専門会社と対策を進め、被害を受けたサーバーの一部に個人情報が保管されていたことから、個人情報保護委員会にも報告しています。11日後には全拠点で通常稼働に戻り、受発注の制限も解除されました。低温物流という社会インフラに近い事業だからこそ、システムが止まることの影響の大きさが浮き彫りになった出来事です。
