野球のグラブやランニングシューズで知られるミズノは、1906年、大阪の小さな洋品店から始まった。 統一球騒動やシューズ不振を経て、いまは過去最高の業績を更新し続けている。 競技をまたいで技術を使い回す発想が、この会社の強さを支えている。

01

創業から現在へ — ストーリー

1906 — 1910
水野利八・利三兄弟が大阪で野球用品店を開く
1884年、岐阜県大垣市に生まれた水野利八は、大阪の薬種問屋で丁稚奉公をしたのち、京都の織物問屋で修行を積みました。日露戦争から帰還した利八は、1906年、弟の利三とともに大阪北区で洋品雑貨店「水野兄弟商会」を開きます。洋品とあわせて野球ボールの販売を始めたことが、のちのミズノの出発点になりました。1910年には店名を「美津濃商店」に改めています。
1910 — 1933
野球用品から、スキー・ゴルフへと種目を広げる
美津濃商店は野球用品にとどまりませんでした。1910年に野球シューズ、1913年にグラブとボールの製造を始め、1920年には「オーバースエター」という商品が大ヒットします。1923年には国内で初めてスキー用品の販売に乗り出し、1933年には日本初のゴルフクラブ「スターライン」を発売しました。当時の鋳造アイアン技術は、いまのゴルフクラブづくりにも受け継がれています。
1942 — 1971
美津濃株式会社に社名変更、水野利八の死と殿堂入り
1942年、美津濃運動用品株式会社は「美津濃株式会社」に社名を改めます。戦時中の1943年には岐阜県に養老工場を開設し、当初は木製の家具など木工日用品を製造していました。創業者の水野利八は1970年に亡くなりますが、用具の生産・改良に尽力した功績が認められ、翌1971年、野球殿堂入りを果たしています。
1962 — 1989
株式上場と「エスポートミズノ」の開店
美津濃は1962年に東証第二部、1972年には東証・大証第一部に株式を上場しました。1987年、対外的な表記を「ミズノ」に統一します。1989年には旗艦店「エスポートミズノ」を開店し、各分工場も独立して株式会社ミズノインダストリーへ移行しました。
2011 — 2013
プロ野球「統一球」問題でミズノにも批判の目
2011年、日本野球機構(NPB)は国際大会にあわせてボールの反発係数を下限に近づけ、ミズノが製造する統一球を導入しました。ホームラン数は2010年の1,605本から2011年は939本へ急減します。2013年、NPBがシーズン途中でボールの仕様を変えていたことが発覚し、当時のコミッショナーが「隠すことではまったくなく、当然公表すべきでした」と釈明する事態に発展しました。
2019 — 2020
シューズ不振と暖冬・コロナで、2期連続の減収
2019年3月期、ミズノはランニングシューズ市場の在庫過多やアジア事業の落ち込みで減収減益となりました。翌2020年3月期も、暖冬による秋冬アパレル不振と新型コロナウイルスの影響が重なり、売上高は前の期を下回ります。一方で米州事業は4期ぶりの黒字に転換するなど、立て直しの兆しも見え始めていました。
2022 — 2025
「転用の経営」で技術を混ぜ、業績は過去最高を更新
2022年、ミズノは競技の垣根を越えて技術を掛け合わせる研究施設「MIZUNO ENGINE」を本社脇に設立しました。軟式バットの技術をゴルフクラブに、ランニングシューズの技術をファッションスニーカーに応用するなど、約30競技の技術を混ぜる発想で新商品を生み出します。この取り組みも支えとなり、2025年3月期には売上高・営業利益がそろって過去最高を更新しました。
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
シューズ・アパレル・用具(スポーツ用品事業)
野球やゴルフで培った技術をもとに、ランニング、サッカー、バドミントンなど幅広い競技向けにシューズ・アパレル・用具を展開しています。近年はフットボールやインドアスポーツ向けの伸びが業績を支えています。
柱 02
ワークビジネス(作業服・安全用品)
スポーツ用品で培った素材や機能性の技術を、企業向けの作業服や安全靴に応用する事業です。この5年で売上規模が100億円を超えるまで拡大したと説明されています。
柱 03
自社生産・ものづくり(ミズノテクニクス)
岐阜県の養老工場をはじめとする自社工場が、シューズや用具の生産を担っています。「品質は工程で作り込む」という創業以来のものづくりの哲学を受け継ぐ拠点です。
柱 04
海外事業
米州はゴルフ、欧州はインドアスポーツとファッションスニーカー、アジア・オセアニアはバドミントンやサッカーを軸に、地域ごとに強みを分けて事業を広げています。海外売上高の拡大を目指し、グローバル化を進めています。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

野球用品から始まったミズノは、近年はフットボールやインドアスポーツ、企業向けワークビジネスへと事業の重心を広げています。特定の競技の流行に業績が振られにくい構造へ変わりつつあるかどうかは、今後の決算を見るときの参考になりそうです。

2019年3月期・2020年3月期のように、シューズ市場の在庫調整や天候の影響で減収減益になった年もありました。用品メーカーは天候や海外の市況、原材料コストの変化を受けやすい業種である点は、業績を見るときの参考になりそうです。

「水野兄弟商会」——日露戦争帰りの青年が始めた野球用品店

水野利八は1884年、岐阜県大垣市に生まれました。大阪の薬種問屋で丁稚奉公をしたのち、京都の織物問屋で修行を積みます。日露戦争から帰還した利八は「わが国の将来にスポーツ普及の必要を痛感し」たとして、1906年、弟の利三とともに大阪北区で洋品雑貨店を開きました。

店の名前は「水野兄弟商会」。洋品雑貨とともに野球ボールを売り始めたことが、のちのスポーツ用品メーカー・ミズノの出発点になりました。

赤シャツ騒動——シカゴ大学野球チームの応援が生んだ大ヒット

創業まもないころ、水野利八はある試合を観戦していました。来日したシカゴ大学野球チームと日本チームの一戦です。利八は赤いシャツを着て、大声で応援したと伝えられています。

この派手な応援が学生たちの間で話題になり、赤シャツが飛ぶように売れたという逸話が残っています。利八はその後も1918年、開襟シャツに「カッターシャツ」、旅行かばんに「ボストンバッグ」という名前を付けたとされ、商品のネーミングにも独自の感覚を発揮しました。

「美津濃」という名前——ふるさとの地名に込めた思い

1910年、水野利八は店名を「水野兄弟商会」から「美津濃商店」に改めました。この表記には、利八の故郷への思いが込められています。生まれ育った岐阜県大垣市の「船町」は、港を意味する「津」の字を持つ土地でした。利八は自らの出身地である美濃国の「美濃」という文字の間に、この「津」を挟み込んで「美津濃」という社名を作ったとされています。

利八は「将来を考え、店が発展したときに、水野家の子孫以外にも立派な人材が現れることも考えて」この名前を選んだと伝えられています。いまも正式な会社名は「美津濃株式会社」のままで、1987年に対外的な表記だけを「ミズノ」に統一しました。

「利益の利より道理の理」——創業者が遺した経営哲学

水野利八の経営哲学を表す言葉として、「利益の利より道理の理」という一節が知られています。目先の利益より、正しい道理を優先するという考え方です。この言葉は、創業から120年近くたったいまも、ミズノの行動の基礎に位置づけられています。

現場ではこの哲学が「品質は工程で作り込む」という合言葉になり、養老工場をはじめとする自社工場のものづくりを支えています。利八が生涯をスポーツ振興に献身した遺志は、1970年設立の「財団法人ミズノスポーツ振興会」(現・公益財団法人ミズノスポーツ振興財団)へとつながりました。

統一球騒動——NPBが隠した「調整」とミズノの立場

2011年、日本野球機構(NPB)は国際大会にあわせてボールの反発係数を下限に近づけ、ミズノが製造する統一球を導入しました。ホームラン数は2010年の1,605本から2011年は939本へ、翌2012年も881本にとどまるなど大きく減少します。

2013年のシーズン開幕後、今度は逆に「ボールが飛ぶようになった」との指摘が相次ぎました。NPBは当初ボールの変更を否定していましたが、実際にはゴムの成分を変更し、ミズノに調整を依頼していたことが判明します。当時のコミッショナーは「隠すことではまったくなく、当然公表すべきでした」と釈明し、審議の場ではミズノ側の説明も十分でなかったと指摘されました。

シューズ不振からの立て直し——「転用の経営」で技術を混ぜる

2019年3月期、ミズノはランニングシューズ市場の在庫過多や海外事業の落ち込みで減収減益となりました。翌2020年3月期も暖冬とコロナ禍が重なり、業績は苦しい状況が続きます。

立て直しの鍵になったのが「転用の経営」という発想でした。軟式バットの技術をゴルフクラブに転用するとヒット数が3.5倍になり、ランニングシューズの技術をファッションスニーカーに応用すると4年で売上高が10倍に伸びたといいます。2022年には競技の垣根を越えて開発する研究施設「MIZUNO ENGINE」を設立し、約30競技の技術を混ぜ合わせる体制を整えました。この結果、2025年3月期には売上高・営業利益とも過去最高を更新しています。

ソフトボール用バット、8割が基準未達——安全優先のリコール

2024年、ミズノは自社製のFRP製ソフトボール用バット「X01」について検査を行った結果、安全性が確認できない製品が全体の8割にのぼることを明らかにしました。対象は2019年モデルと2024年モデルの2品番です。

日本ソフトボール協会は対象バットの試合使用を禁止し、ミズノはX線検査を1日300本のペースで進め、およそ1週間で選手に返却する対応を取りました。基準を満たさない製品は、2024年に発売した新モデルへの交換対応が取られています。

サッカーとインドアスポーツの躍進——野球用品メーカーからの脱皮

かつて野球用品メーカーとして知られたミズノですが、近年はフットボールとインドアスポーツの分野で伸びています。ポルトガル代表のジョアン・フェリックス選手とのアンバサダー契約や、Jリーグ・セレッソ大阪との新規ユニホーム契約が、この分野の成長を後押ししました。

水野明人社長は、シューズとアパレルをそれぞれ4割、用具を2割という将来の売上構成比を理想として掲げています。用具中心だった事業構造を、シューズ・アパレル中心へ組み替えようとする狙いがあります。

「せんみつ」の哲学——1000挑戦して3つ成功すればいい

水野明人社長は、社内の経営哲学を「せんみつ」という言葉で表現しています。1000回挑戦して3つ成功すればいいという考え方で、社員の失敗を評価で下げない方針を掲げているといいます。

この発想のもと、社内から新規事業のアイデアを募る「アイデアソン」には800件の意見が集まりました。欧州で人気に火がついたファッションスニーカー事業では、2025年秋に東京都内で直営店を4店舗出店するなど、新しい挑戦が続いています。