石川の銅山にあった小さな鉄工所は、100年でキャタピラーに次ぐ世界2位の建機メーカーになった。 転機は2001年、創立以来の危機的な赤字と、盗難防止のために作った通信技術だった。 いまこの会社の建機は、GPSと通信でつながり、遠く離れた場所からでも動きが見える。

01

創業から現在へ — ストーリー

1917 — 1921
竹内明太郎、銅山の修理工場を機械メーカーへ
1917年、高知県出身の実業家、竹内明太郎は、石川県小松にあった遊泉寺銅山の修理工場として小松鉄工所を開きました。竹内は早稲田大学理工科の設立を財政面から支えるなど、教育や産業の育成に力を注いだ人物です。1921年、小松鉄工所は銅山から切り離され、株式会社小松製作所として独立しました
1931 — 1947
国産トラクター第1号から、戦後の経営危機へ
1931年、コマツは農林省の要請を受け、国産初の農耕用トラクターを完成させました。戦時体制が強まる中の1943年には、重土工機械増産の要請を受け、国産初のブルドーザーの原型機「G40」を短期間で作り上げています。ですが戦後の1947年、進駐軍の方針転換でトラクターの発注そのものが白紙撤回され、コマツは大黒柱を失いました。従業員の不安は、待遇改善を求める大規模なストライキへと発展していきます。
1949 — 1959
米軍向けの砲弾生産から、ブルドーザー専業へ
経営危機の収拾にあたった河合良成社長のもと、コマツは1949年ごろから米軍向けの砲弾生産を請け負い、一時は売上高の7割以上を砲弾生産が占めるまでになりました。ですがこの需要はいずれ終わる、綱渡りの経営でもありました。1956年、コマツは大阪工場の生産をブルドーザーに全面転換すると決断し、1959年には当時として過去最高となる売上高を記録しています。
1961 — 1968
キャタピラー上陸と、品質改善への集中
1960年、日本政府が資本自由化の方針を示すと、世界最大手のキャタピラー社は新三菱重工業と合弁会社を設立し、日本市場に本格参入しました。危機感を強めたコマツは、対抗策を品質改善の一点に絞ります。1961年、社内に「マルA対策」の本部を設置し、4000点ある部品のうち約8割を改良しました。1964年には、品質管理の分野で権威あるデミング賞実施賞を受賞しています。
1998 — 2003
盗難防止の技術と、創立以来の危機的な赤字
1998年ごろ、建機の盗難が相次いだことをきっかけに、コマツはGPSと通信機能を使って機械の位置や稼働状況を把握する仕組み、KOMTRAXを開発しました。当初は有料のオプション機能でした。転機は2001年です。社長に就任した坂根正弘は、800億円の赤字に直面します。坂根はKOMTRAXを無償の標準装備にすると同時に、大がかりなリストラを断行しました。翌2003年3月期には、約330億円の営業黒字というV字回復を果たしています。
2005 — 2017
無人ダンプトラックと、鉱山機械の拡大
2005年、コマツは南米チリ北部の銅鉱山で、運転手のいらない無人ダンプトラック運行システム(AHS)を世界で初めて試験導入しました。2008年には商用稼働を開始しています。2017年には、米国の鉱山機械メーカー、ジョイ・グローバル社を約3,000億円で買収し、坑内掘り向けの鉱山機械も手に入れました。
2010 — 2026
中国頼みの反動を越え、無人化技術で世界をリード
2010年度、コマツの売上高に占める中国の構成比はピークの21%に達しました。ですが中国の不動産市況が悪化すると需要は急速にしぼみ、コマツは2023年をめどに中国の生産能力を4割減らす決断をします。その一方でコマツは、鉱山や林業、建設現場をデジタル技術でつなぐスマートコンストラクションや無人化技術への投資を続けました。2026年、超大型無人ダンプトラックの累計導入台数は1,000台に達し、コマツはこの規模を達成した世界初のメーカーになっています。
TEN YEARS

10年で、売上は約2.3倍

5兆円
2.5兆円
2017 · · · · · · · · 2026
売上 純利益(手元に残った利益)
売上
10年前
18,030億円
現在
41,328億円
約2.3倍に増加
純利益
(手元に残った利益)
10年前
1,134億円
現在
3,764億円
売上100円につき約9円
従業員
10年前
47,204
現在
67,279
約1.4倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
建設機械(コンストラクション)
油圧ショベルやブルドーザー、ホイールローダーなど、土木・建設現場で使う中小型の建機を幅広く手がける主力事業です。小型から超大型までをそろえるフルラインメーカーとして、世界中の建設現場を支えています。
柱 02
鉱山機械(マイニング)
資源国の鉱山で使う大型ダンプトラックやショベルを手がける事業です。無人ダンプトラック運行システム(AHS)や、ジョイ・グローバル社の買収で得た坑内掘り向け機械など、自動化・無人化の技術力が強みになっています。
柱 03
アフターマーケット(部品・サービス)
機械を売った後の補給部品の販売や定期メンテナンスを担う事業です。建設機械・車両事業の売上のおよそ半分、鉱山機械にかぎればおよそ3分の2を、この部品・サービスが占めています。新車の需要変動に左右されにくい収益を生んでいます。
柱 04
リテールファイナンス
建機や鉱山機械を購入する顧客向けに、割賦やリースで購入資金を提供する金融事業です。世界12社のファイナンス子会社を通じて、グローバルな需要の約7割をカバーしています。
柱 05
産業機械他
自動車産業向けのプレス機械・工作機械や、半導体製造装置向けのエキシマレーザーなどを手がける事業です。建機以外の分野でも精密機械メーカーとしての技術を生かしています。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

コマツは海外売上高が9割を超える構造のため、為替や各国のインフラ投資、資源価格の動きに業績が左右されやすくなっています。中国事業がピーク時から急落した経緯は、特定の国や地域に依存することの怖さを示す事例として読むこともできそうです。

建設機械・車両事業の売上のおよそ半分は、新車販売ではなく部品・サービス(アフターマーケット)が占めています。鉱山機械ではその比率がさらに高く、稼働中の機械があるかぎり収益が生まれる構造です。決算のニュースを見るときは、新車の販売台数だけでなく、この部品・サービス収益の動きにも目を向けると、業績の底堅さを測るヒントになりそうです。

「小松鉄工所」——銅山の修理工場から始まった会社

石川県小松の遊泉寺銅山を経営していた竹内鉱業は、1917年、自家用の機械を作るための修理工場として小松鉄工所を開きました。創業者の竹内明太郎は高知県出身の実業家で、早稲田大学理工科の設立を財政面から後押しし、日産自動車の前身となる快進社の設立にも関わった人物です。国産車「ダット(DAT)号」の車名の一文字「T」は、竹内のイニシャルに由来すると伝えられています。

1921年、小松鉄工所は銅山経営から切り離され、株式会社小松製作所として独立しました。銅山の修理工場から始まった会社が、その後100年をかけて世界的な建機メーカーへ育っていきます。

国産トラクター第1号と、戦争が生んだ国産ブルドーザー

1931年、コマツは農林省の要請を受けて国産初となる農耕用トラクターを完成させました。海外製の輸入トラクターに頼っていた日本の農業機械化に、一石を投じる出来事でした。

戦時体制が強まる中の1943年、コマツは重土工機械の増産要請を受け、すでに手がけていたガソリン機関トラクターを土台に、国産初となるブルドーザーの原型機「G40」を短期間で作り上げました。

「100日ストライキ」——発注撤回が招いた経営危機

1947年、進駐軍の方針転換を受けて、農林省はコマツへのトラクター発注を白紙に戻しました。主力商品を失ったコマツの工場では従業員の仕事が減り、待遇改善を求める大規模なストライキが発生します。経営は創業以来の危機を迎えました

事態の収拾にあたったのが、農林省出身で新たに社長となった河合良成です。河合はかつて農林省の担当者として、コマツにトラクター生産を勧めた経緯があり、みずから労使交渉の矢面に立ったと伝えられています。

砲弾生産という綱渡りから、ブルドーザー専業へ

労働争議を収めたコマツは、次の柱を朝鮮戦争の特需戦争や災害など特別な事情で一時的に発生する大きな需要。に見出します。1949年ごろから米軍向けの砲弾生産を請け負い、一時は売上高の7割以上をこの砲弾生産が占めるまでになりました。ですがこの需要はいずれ終わる、綱渡りの経営でもありました。

1956年、コマツは大阪工場の生産をブルドーザー専業へ切り替えると決断します。戦時中から積み重ねてきた建機の技術が、この転換をわずか数年で軌道に乗せました。1959年には、当時として過去最高となる売上高を記録しています。経営危機から10年あまりで、コマツは建機メーカーとしての土台を固めました

「マルA対策」——キャタピラー上陸への対抗策

1960年、日本政府が資本自由化の方針を打ち出すと、世界最大手の建機メーカー、キャタピラー社は新三菱重工業と合弁会社を設立し、日本市場に本格参入します。当時のコマツ社長、河合良成は通商産業省に抗議しましたが、国の方針を覆すことはできませんでした。

河合が選んだ対抗策は、品質改善への集中でした。1961年、社内に「マルA対策」と呼ばれる品質改善運動の本部を設置し、約4000点ある部品のうち、およそ8割を見直しました。1964年、コマツは品質管理の分野で権威あるデミング賞実施賞を受賞しました。

盗難防止のはずが、世界を変えたKOMTRAX

1998年ごろ、駐車中の油圧ショベルが盗まれ、ATMの破壊に使われる事件が相次いでいました。この対策として、コマツはGPSと通信機能を組み合わせ、機械の位置や稼働状況を遠隔で把握する仕組み、KOMTRAXを開発します。実はこの発想自体はコマツが最初ではなく、ライバルの日立建機が先に有償オプションとして提供していました

転機は2001年です。社長に就任した坂根正弘は、KOMTRAXを無償の標準装備にすると決めました。1台あたり20万円ものコストがかかる決断でしたが、日経xTECHによれば坂根は「建機の正確な位置が分かれば修理などのサービスを迅速に行える」ことは顧客だけでなく自分たちにもメリットがあると述べたとされています。盗難防止のために生まれた技術は、その後、燃費改善の提案や部品交換時期の予測など、コマツの収益を支えるサービス事業の土台へと育っていきました。

「800億円の赤字」——坂根正弘の構造改革とダントツ経営

2001年、坂根正弘がコマツの社長に就任した年、コマツは創立以来の危機的な水準となる800億円の赤字を計上しました。バブル崩壊後も抱え続けていた過剰な固定費と、広がりすぎた事業が経営を圧迫していました。

坂根は「一度限りの大手術」と決めてリストラを断行する一方、KOMTRAXの標準装備化など攻めの投資も並行して進めます。競合が数年かけても追いつけない「ダントツ商品」を育てる方針を掲げました。のちの2006年には、社内の行動指針「コマツウェイ」も整えています。翌2003年3月期、コマツは約330億円の営業黒字というV字回復を果たしています。

「21%から3%へ」——中国頼みの反動と、そこからの立て直し

2010年度、コマツの売上高に占める中国の構成比は、ピークとなる21%まで膨らみました。中国の建設ラッシュを追い風に、コマツの建機は飛ぶように売れていました。

ですが中国の不動産市況が悪化すると、建機需要は急速にしぼみます。2022年ごろには中国の売上高比率は3%程度まで落ち込み、コマツは2023年をめどに中国の生産能力を4割減らすと決めました。中国頼みの反動は小さくありませんでしたが、コマツはこの間、資源国向けの鉱山機械や林業機械、無人化ソリューションといった他の成長分野へ経営資源を振り向け、事業の柱を分散させていきました。

チリの鉱山から広がった、運転手のいないダンプトラック

2005年、コマツは南米チリ北部の銅鉱山で、運転手を必要としない無人ダンプトラック運行システム(AHS)を世界で初めて試験導入しました。GPSと通信技術で機械の位置を把握してきたKOMTRAXの延長線上にある挑戦でした。

2008年に商用稼働を始めたAHSは、資源国の鉱山を中心に導入が広がっていきます。2017年には米国の鉱山機械メーカー、ジョイ・グローバル社を買収し、坑内掘り向けの鉱山機械もラインアップに加えました。2026年、超大型無人ダンプトラックの累計導入台数は1,000台に達し、コマツはこの規模に達した世界初のメーカーになっています。盗難防止のGPSから始まった技術は、いま鉱山を無人で走るダンプトラックにまで育っています。