1840年、江戸の大工が独立して興したのが、鹿島建設の始まりだった。 丹那や青函の難工事を越え、リニア談合という重い過去も抱えながら、いまも国内最大級のゼネコン(総合建設会社)であり続けている。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.7倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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投資家目線のポイント
建設業は受注してから売上に計上されるまで数年かかる特性があります。当期の受注動向は、数年後の業績を映す先行指標として読む視点が参考になりそうです。
大手ゼネコンは横並びの受注慣行や独占禁止法違反のリスクを抱えてきました。談合など法令違反のニュースに接したときは、それが一過性か構造的な問題かを見る視点も参考になりそうです。
「大岩」——大工の鹿島岩吉、独立する
1840年、鹿島岩吉は江戸の京橋で、大工として「大岩」の屋号を掲げ独立しました。諸大名の江戸屋敷を手がけながら、幕末の横浜開港とともに横浜へも進出します。
1860年には英国商社ジャーディン・マセソン商会の「英一番館」を施工しました。日本における洋風建築の最初期の事例とされ、先端技術を積極的に取り込む社風の原点になったといわれています。
「鉄道の父」の勧め——洋館を捨て、鉄道請負業へ
2代目の鹿島岩蔵は、稼ぎ頭だった洋風建築を離れ、鉄道工事の専業へ転じることを決めました。後押ししたのは、工部省鉄道局長で「鉄道の父」と呼ばれた井上勝です。岩蔵の仕事ぶりを見込み、鉄道請負業への転向を強く勧めました。
1880年、岩蔵は鹿島組を新設し、敦賀線(柳ヶ瀬線)の一部区間を初めて請け負います。不慣れな仕事で赤字を出しましたが、誠実な仕事ぶりが認められ、政府から補助金を受けました。この初仕事の信頼が、各地の鉄道工事を任されるきっかけになります。
67人の死者——丹那トンネルを、16年かけて掘り抜く
1918年、鹿島組は丹那トンネルの工事に着手しました。断層と大量の地下水、変質した火山堆積物という三重の壁が立ちはだかります。
1925年には土砂と地下水が迂回坑を襲い、作業員16人が生き埋めで死亡する事故も起きました。工事全体では合計67人が犠牲になっています。
16年後の1934年、トンネルはようやく完成しました。この歳月は、地下工事の難しさを物語る記録として今も語り継がれています。
外交官から婿養子へ——鹿島守之助の転身
鹿島守之助は東京帝国大学を卒業後、外務省に入り、ベルリンの日本大使館に駐在していました。1922年、欧州へ向かう船上で鹿島組社長・鹿島精一と出会います。
精一は守之助の人柄に惚れ込み、「鹿島組の事業には政治が必要」と説得しました。守之助は精一の長女と結婚して鹿島姓を名乗り、1936年に取締役、1938年に社長へと進みます。
社長として、業界初の新入社員教育制度を導入しました。戦後は建設業界初の技術研究所を設立し、日本初の原子炉建設にも尽力しています。
霞が関ビル——超高層は「不可能」を覆した
関東大震災後、日本の建物の高さは法律で31メートルに制限されていました。1963年の建築基準法改正でこの規制がなくなり、超高層ビルの建設が初めて可能になります。
それでも、地震国の日本で超高層は「不可能」とされていました。鹿島は耐震構造の権威、東京大学の武藤清博士を副社長に迎え、地震のエネルギーを吸収する「柔構造」という新しい考え方を採用します。
1968年に完成した霞が関ビルは、日本初の超高層ビルとなりました。以後、鹿島は「超高層の鹿島」と呼ばれるようになります。
竜飛工区13キロ——青函トンネルを北海道までつなぐ
本州と北海道を結ぶ青函トンネルは、全長53.85キロ、うち海底部は23.3キロという、建設当時世界最長の海底トンネルでした。異常な出水や複雑な地質など、数々の難関に直面する工事でした。
鹿島は1972年、本州側海底部の竜飛工区13キロを担当します。実工事期間だけで16年をかけ、1985年に本坑が貫通しました。
1988年、青函トンネルは津軽海峡線として開通しました。地質調査を含めると、計画から完成まで42年を要したプロジェクトでした。
受注予定者は、先に決まっていた——リニア中央新幹線談合の結末
2014年から2015年にかけて、鹿島を含む大手ゼネコン4社は、リニア中央新幹線の品川駅・名古屋駅工事で受注する会社をあらかじめ決める合意をしたとされています。2018年、独占禁止法違反の疑いで関係者が逮捕されました。
2020年、公正取引委員会は4社に排除措置命令を出し、大林組と清水建設には合計約43億円の課徴金を命じました。鹿島は工事を受注していなかったため、課徴金の対象にはなっていません。
2021年、東京地裁は鹿島と大成建設の法人、そして元幹部2人を有罪と判断し、両社にそれぞれ罰金2億5千万円を言い渡しました。両社は無罪を主張して控訴しましたが、2023年の高裁判決でも有罪が確定しています。判決後、JR東海は両社を一定期間、指名停止としました。
「熊に抜かれた鹿」——2015年の一人負けから、業界初の3兆円へ
2015年3月期、鹿島は連結営業利益で準大手の熊谷組に抜かれ、日本経済新聞電子版に「熊に抜かれた鹿」という見出しが掲載されました。この時期、業績の下方修正が繰り返されていました。
そこから10年余りをかけて、鹿島は採算性を立て直していきます。2026年3月期、売上高は前期比5.3%増の3兆672億円となり、国内建設会社として初めて3兆円を超えました。営業利益は前期比58.5%増の2,407億円、純利益は同40.9%増の1,773億円と、いずれも過去最高を更新しています。
3兆円目前の急逝——天野裕正から桐生雅文へ
2021年に社長に就任した天野裕正は、中核事業の強化を進め、鹿島の連結売上高を4年半で約1兆円押し上げました。会社が業界初の3兆円到達を目前にしていた2026年、天野は心不全のため74歳で急逝します。
後任には、会長の押味至一がいったん社長を兼務した後、建築畑を歩んできた桐生雅文が就きました。桐生は東京ミッドタウン日比谷の工事所長を務めた人物で、現場のリーダーシップが評価されての起用でした。
