トヨタ自動車から切り離された電装品工場は、社名に「トヨタ」を名乗ることさえ許されなかった。 そこから這い上がり、世界屈指の自動車部品グループになったのがデンソーだ。 いまEVと自動運転の時代、「トヨタ依存からの脱却」という宿題は、まだ終わっていない。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.7倍
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事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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投資家目線のポイント
デンソーの売上のおよそ半分は、いまもトヨタグループ向けが占めています。1982年の計画以来「トヨタ依存からの脱却」を掲げてきましたが、40年以上たった今も大きくは変わっていない構造だという点は押さえておきたいところです。
自動車部品は一つの不具合が複数の完成車メーカーに連鎖しやすい商売です。近年の燃料ポンプのリコールのように、品質トラブルが業績に大きく響く場面があることは、頭の片隅に置いておくとよさそうです。
「トヨタを使うな」——分離独立の条件
1949年、トヨタ自動車工業は経営危機のなかで、電装品の工場を切り離すことを決めました。生まれたのが日本電装、いまのデンソーです。
初代社長には、電装品工場の工場長だった林虎雄が就きました。トヨタの豊田喜一郎社長は林に、電装の仕事をトヨタの一工場としてやらせておくと、できる範囲でという甘えが出て真剣に競争する気持ちが生まれない、と伝えたと、デンソー自身の社史は記録しています。分離・独立させ、他のメーカーにも部品を納められる会社にしたい、という考えでした。
ただし条件は厳しいものでした。会社の信用はまだ何もなく、社名に「トヨタ」を使うことすら許されなかったのです。トヨタの看板を汚さないための、いわば安全装置でした。ここから、親会社に頼らず自分の足で立つというデンソーの姿勢が始まっています。
473人の解雇、そして29日間のストライキ
創立から間もない1950年、日本電装は苦しい資金繰りのなかで、473人の人員整理を含む再建案を発表しました。労働組合はこれに反発し、長い交渉が始まります。
会社側の交渉役を務めたのは、労務担当だった岩月達夫です。連日組合のもとへ足を運び、「この船をなんとか沈ませないために、会社側の提案をのんでほしい」と説得を続けたと伝えられています。
29日間にわたる交渉の末、組合は人員整理を受け入れました。厳しい経験でしたが、この争議を通じて労使双方に「会社が栄えてこそのお互いだ」という認識が生まれたと、デンソーの社史は記しています。労使協調という、その後の会社の価値観の土台になった出来事です。
ボッシュ社に3度突き返された、品質という代償
独立したばかりの日本電装には、電装品の技術がまだ十分にありませんでした。当時の日本の技術水準は、欧米よりも10年以上遅れているとされていたといいます。
1953年、日本電装はドイツのロバート・ボッシュ社と技術提携を結びました。株式10%とロイヤリティーを渡す代わりに、特許と技術を全面的に公開してもらう契約でした。
品質指導は厳しいものでした。作った製品をドイツへ送って検査を受けると、不備を指摘されて送り返される。それを3回も繰り返してようやく合格した、というエピソードが伝えられています。この経験を経て、日本電装は1954年のカーヒーターから1957年のカーエアコンまで、わずか4年で製品の幅を大きく広げました。1961年には、品質管理の最高権威とされるデミング賞も受賞しています。
電装の「巨大化」にトヨタが見せた警戒心
1982年、日本電装は売上高1兆円を目指す計画を立てました。掲げたのは、トヨタ以外の顧客開拓、海外進出、エレクトロニクス分野への進出という3つの方針です。
この計画は狙いどおり会社を大きく成長させました。ところが、日本電装がエレクトロニクス分野に力を入れるほど、親会社であるトヨタは警戒を強めていったと報じられています。1988年の新聞は、トヨタ社内に「日本電装などとの価格交渉が進めにくい」という不満があったと伝えました。
トヨタは1989年、車載ICを自社で手がけるための工場を新設しています。部品メーカーが力をつけすぎることへの、親会社側の複雑な感情がうかがえる出来事でした。
わずか2人から始まった、QRコードという賭け
1990年代、自動車業界は大量生産から多品種少量生産へと移り変わり、扱う情報の量が急に増えていました。それまで使っていたバーコードでは、もう情報を読み切れなくなっていたのです。
1992年、デンソーは新しいコードを開発するプロジェクトを立ち上げました。始まりはたった2人からでした。アメリカも他社も開発にしのぎを削るなか、「どうせやるなら世界標準を目指そう」という意気込みで、2年をかけて1994年に完成させたのが「QRコード」です。
デンソーが選んだのは、特許を持ちながら権利は行使しないという「オープン戦略」でした。おかげで多くの企業が自由にQRコードを使えるようになり、2000年には国際規格にもなっています。自動車部品の会社が生んだ発明は、いまやコンビニのレジからスマートフォンの読み取りまで、暮らしの隅々に広がっています。
「電装」を捨て、「デンソー」を選んだ日
1990年代前半、バブル崩壊で厳しい状況に置かれた日本電装は、石丸典生社長のもとで「変革」を合言葉に体質強化を進めていました。
それでもまだ社員の危機感が足りない——石丸社長にはそんな不安があったと、デンソーの社史は記しています。そこで踏み込んだのが、社是や社歌に加えて社名そのものの見直しです。創立以来使ってきた「日本電装」という名前も、対象になりました。
1996年、「日本電装株式会社」は「株式会社デンソー」に社名を変えました。長年親しんだ名前まで見直すところまで踏み込むことで、「変革」を必ずやり遂げるのだという会社の強い意思を全社員に示す狙いだったと、社史は説明しています。
過去最大の品質危機、燃料ポンプが突きつけた代償
2017年、自動車業界に「100年に1度」ともいわれる変化が迫るなか、有馬浩二社長は新しいタグライン「Crafting the Core」を打ち出しました。同じ年には富士通テンを買収し、自動運転関連の開発体制も強化しています。
ところが2019年度、デンソーは過去最大規模の品質問題に直面しました。原因は燃料ポンプの不具合です。品質引当費用として2,000億円を超える金額を計上し、決算は前の年から約8割の減益となりました。
デンソー自身、これを「品質のデンソー」という看板を揺るがす深刻な事態だったと位置づけています。翌2020年には全社改革「Reborn21」をまとめ、設計と製造の両面から信頼回復に取り組み始めました。
止まらなかったリコール、430万台という数字が語ること
燃料ポンプの問題は、2019年度の引当金計上だけでは終わりませんでした。原因とされたのは、部品の一つである樹脂製インペラが燃料によって変形し、動かなくなるという不具合です。
その後もリコールは繰り返され、2023年までにホンダだけで5回にのぼったと報じられています。同年には、鳥取県内のトンネルでこの不具合によるとみられるエンストが起き、後続車に追突されて1人が亡くなる事故も起きました。事故を起こした車両自体は、その時点ではリコールの対象になっていなかったといいます。
デンソーがこの経緯を公表したのは、事故から数か月後になってからでした。対象は自動車・二輪車メーカー合わせて10社、約430万台に達したと報じられています。品質問題は一度の危機対応で終わるとは限らない、という重い教訓を残す出来事になりました。
「トヨタ依存からの脱却」、40年越しの宿題
1982年の1兆円計画で、日本電装は「トヨタ以外の顧客開拓」を成長の柱の一つに掲げました。海外進出とエレクトロニクス分野は計画どおり伸びましたが、トヨタグループ向けの売上比率は今も5割前後で、40年以上たった今もこの目標だけは道半ばだと報じられています。
2024年、デンソーはここに一つの区切りをつけました。4,500億円規模の自社株買いと2,000億円の株式売り出しを同時に決め、トヨタグループとの株式持ち合いの縮小に踏み出したのです。豊田自動織機の株式は10回に分けて売却する方針も示されました。
技術と発注で結びついてきた親会社との関係を、株式の持ち合いという面からも見直す。デンソーにとって、次の40年に向けた新しい一歩といえそうです。
