倒産の瀬戸際で、世界最高峰のレース出場を宣言した町工場があった。 各社が「達成不可能」と口を揃えた排ガス規制を、世界で初めて突破してみせた。 二輪事業は世界シェア4割を握る稼ぎ頭となり、電動化の立て直しを支える。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.6倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
「人間休業」——焼け跡から生まれた補助エンジン付き自転車
終戦後、本田宗一郎は「人間休業」を宣言し、しばらく時代を見極めていました。1946年、旧陸軍無線機の発電用エンジンを自転車に取り付けるアイデアを思いつきます。エンジンは1基ずつ完全に分解し、手を加えて組み直し、自転車に取り付けて試走してから売るという徹底ぶりでした。同じ年、焼け野原に本田技術研究所が生まれます。のちに世界生産累計5億台を数える二輪事業は、この補助エンジン付き自転車から始まっています。
藤澤武夫——全国販売網を一代で築いた経営の腕
1949年、本田宗一郎と藤澤武夫は共通の知人を介して出会いました。二人は後に、互いに惹かれた理由を「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたからだ」と語っています。藤澤は自分の会社を畳んでホンダに入り、販売網づくりと資金繰りを一手に引き受けました。約5万軒の自転車店にダイレクトメールを送り、独自の全国販売網を築いたのも藤澤の作戦です。以後、本田は技術に専念し、経営は藤澤に任せます。この分担が、ホンダという会社の骨格になりました。
「マン島TTレース出場宣言」——倒産危機に夢を賭けた
1954年、ホンダは危機の中にいました。主力製品の不具合が重なり、朝鮮特需戦争や災害など特別な事情で一時的に発生する大きな需要。も終わり、協力メーカーへの支払いさえ一部棚上げを頼む状態でした。そのさなかに本田宗一郎は、世界最高峰のオートバイレース、マン島TTへの出場を宣言します。視察に訪れた現地では、同じ排気量で3倍の馬力を出す欧州のマシンに愕然としました。それでも本田は「苦しい時だからこそ夢が必要だ」とレース参戦用マシンの開発を命じています。宣言から7年、ホンダは125cc・250ccの両クラスで上位を独占するまでになりました。
スーパーカブ——出前持ちも片手で運転できるバイク
1956年の暮れ、ホンダは欧州を視察し、モペッドが庶民の足になっている光景を目にしました。持ち帰った開発コンセプトは「そば屋さんの出前持ちが片手で運転できるバイク」であり「スカートをはいたお客様にも乗ってもらえる二輪車」。クラッチ操作をなくし、燃料タンクをシート下に隠しました。1958年に発売されたスーパーカブC100の生産台数は、翌年には約7倍に跳ね上がります。この小さなバイクは世界中で長く作られ続け、ベトナムでは二輪車全般が「ホンダ」と呼ばれるようになりました。
N360——ホンダ四輪を初のベストセラーに導いた
1967年に発売された軽自動車N360は爆発的に売れ、ホンダにとって四輪初のベストセラー車に躍り出ました。その快進撃も長くは続かず、後継車ライフへとバトンを渡して市場から姿を消しています。
CVCC——「地球の空気を汚さないためにやるんだ」
1970年に米国で成立したマスキー法は排ガスの大幅削減を義務付け、世界の自動車メーカーが「達成不可能」と口を揃えた規制でした。ホンダは規制成立の何年も前から大気汚染対策の研究室を設け、副燃焼室を使う独自の燃焼方式にたどり着いていました。開発を率いた久米是志(のちの三代目社長)は、「この地球という星の空気をこれ以上汚さないためにやるんだ」という目的を開発チーム全員が共有していたことが成功の鍵だったと語っています。CVCCエンジンはマスキー法合格の第1号となり、ホンダはその技術を独占せず、トヨタやフォードにも公開しました。
引き際——創業者ふたり、そろって会長にも残らず
1973年、創立25周年の記念式典を節目に、本田宗一郎と藤澤武夫は同時退任を表明しました。ふたりとも会長職には就かず、完全な世代交代を実現しています。後を継いだ河島喜好は45歳でした。直後の石油危機では、各社が値上げに走る中で河島は「値上げせず」を表明し、その姿勢が大きく報じられました。創業者が去っても挑戦の姿勢は変わらないことを、数字ではなく行動で示した交代劇でした。
F1——三度挑み、二度姿を消した
1964年、四輪では国内最後発だったホンダは、いきなりF1世界選手権に乗り込みました。第2期にはエンジン供給で通算69勝を挙げ、コンストラクターズタイトルを6年連続で獲得して「史上最強のF1エンジン」と称されます。ですが撤退も二度経験しています。バブル崩壊後の1992年には本業の不振で、その16年後には金融危機のさなかに社長の福井威夫が完全撤退を表明しました。第3期は9年間参戦して優勝はわずか1回。華やかな勝利と苦い撤退の繰り返しが、そのままこの会社の浮き沈みの記録になっています。
二つのリコール——「世界同時開発」で足をすくわれた
2013年、ホンダは世界同時開発をうたう3代目フィットを投入しました。ですが新開発のハイブリッド制御に不具合が相次ぎ、発売から約1年で5回のリコールに至ります。当時の社長・伊東孝紳は、部門の一体化が不完全で、現場技術者の意見をマネジメントが汲み取れなかったと語っています。同じ時期にはタカタ製エアバッグの欠陥問題も拡大し、2015年にはフィットなど163万台を超えるリコールを届け出ました。この経験は、開発・生産・販売の分断を正す体制改革へとつながっていきます。
日産との統合協議——幻に終わった巨大再編
2024年の暮れ、ホンダと日産自動車は経営統合に向けた検討で基本合意書を結びました。当初の構想は共同持株会社他の会社の株式を保有し、グループ全体の経営管理を担う会社。自らは事業を行わないことが多い。の設立でしたが、協議の過程ではホンダを親会社、日産を子会社とする株式交換案への変更も検討されました。ですが翌年、両社は基本合意書を解約し、検討を終了します。公表された理由は「意思決定、経営施策実行のスピードを優先するためには、経営統合の実行を見送ることが適切」というものでした。以後も両社は、戦略的パートナーシップの枠組みで連携を続けるとしています。
統合協議と並行して、ホンダは自社の戦略見直しも進めています。2025年、電動化への投資配分を10兆円から7兆円に引き下げ、その2年後から4年間でハイブリッド車を新たに13モデル投入する方針を示しました。祖業の二輪事業は同時期に世界シェア約4割・2,057万台を販売し、37の国と地域で過去最高を記録しています。四輪の電動化戦略を仕切り直す一方、稼ぎ頭の二輪の強さが際立つ構図です。
