畑の違う3人が興した小さな研究所から、精密機器の巨人へと這い上がった。 電卓戦争の消耗戦をくぐり抜け、幾度も事業の柱を組み替えてきた。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.4倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
精機光学研究所の始まり——畑の違う3人が集まった
1933年、東京・六本木に「精機光学研究所」が設立されました。吉田五郎と内田三郎が共同で興したこの研究所に医師だった御手洗毅が加わり、内田の海外赴任をきっかけに、経営の素人だった御手洗が社長を引き継いだと伝えられています。
畑の違う3人の出会いが、後の精密機器メーカーの原点になりました。
KWANON——観音菩薩の名を借りた試作機
精機光学研究所が最初に試作した35mmカメラは「KWANON」と名付けられました。観音様の慈悲にあやかり、世界最高のカメラを作る夢を実現したいという願いが込められていました。当時のマークには千手観音が描かれています。
本格的な販売を控えた1935年、経営陣は「キヤノン」(Canon)という言葉を商標として出願しました。Canonには英語で「聖典」「規範」「標準」という意味があり、精密機器メーカーの志にふさわしい言葉として選ばれています。発音が「観音」に似ていたため、名称の切り替えに違和感はなかったそうです。
「一国一城の主」——ブランドを譲らなかった御手洗毅
1950年、渡米した御手洗毅は米ベル・アンド・ハウエル社の社長から提案を受けました。同社はキヤノンのカメラ品質をライカ以上と評価していましたが、条件は占領下の日本ブランドではなく自社ブランドでの販売でした。
御手洗毅は「やせても枯れても一国一城の主、城を売り渡すことはできない」と答え、この申し出を断ったと伝えられています。目先の利益より「打倒ライカ」を優先する姿勢は、朝鮮戦争特需戦争や災害など特別な事情で一時的に発生する大きな需要。に沸いた時期の値下げ圧力に対しても変わらなかったそうです。10年後、同社とはあらためて販売提携の契約を結んでいます。
電卓戦争を生き延びた——51歳の賀来龍三郎の立て直し
電卓市場はこの頃、数十社が入り乱れる消耗戦になっていました。のちに「電卓戦争」と呼ばれた激しい値下げ競争で各社の採算は圧迫され、多くのメーカーが姿を消します。キヤノンはこの市場に踏みとどまり、1974年には電卓の累計販売台数が1000万台を超えました。その後も電子辞書やワープロへ裾野を広げながら電卓を作り続け、発売から60年で世に出した機種は約400にのぼります。
経営の立て直しが動いたのは、社長の前田武男が急逝した1977年でした。常務だった賀来龍三郎が51歳で異例の抜擢を受けて社長に就任します。前年に始まっていた「第一次優良企業構想」を引き継ぎ、翌年には製品別の事業部制を導入して、各事業に採算の責任を持たせました。ばらばらだった多角化を仕組みに変えたこの改革が、後に事業の柱を組み替えていく土台になります。
過去最大の買収——キヤノンが2本足をやめた日
事務機とカメラの2本柱で利益の9割を稼いできたキヤノンにとって、新しい柱をどう作るかは長年の課題でした。2016年、東芝メディカルシステムズを6,655億円で買収。過去最大の案件で、医療機器という3本目の柱に踏み出します。
買収に先立ち、キヤノンは東芝メディカルの新株予約権を取得し、権利行使までの間はキヤノン・東芝以外の第三者に議決権付株式を保有させるという複雑なスキームを組んでいました。公正取引委員会は、このスキームが独占禁止法企業同士の不当な競争制限やカルテル、行き過ぎた企業結合を規制する法律。の事前届出制度の趣旨を逸脱するおそれがあるとして、キヤノンに注意しました。
買収そのものは実現し、東芝メディカルは「キヤノンメディカルシステムズ」と社名を変え、メディカル事業の柱になりました。
