焼け跡に立ち上げた、二十数人の町工場。 炊飯器の失敗から巨額減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。、ソニーショックまで——失敗のたびに、この会社は稼ぐ顔を変えてきた。 それが「世界のソニー」の正体だ。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.6倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
ソニーを「家電の会社」と思って業績を読むと、実態を見誤るかもしれません。いまの利益はゲーム・音楽・映画のエンタテインメントとイメージセンサーが中心で、けん引役は年度ごとに入れ替わります。決算のたびに全体の増減だけでなく「どの事業が動かしたか」まで見ると、この複合企業の姿が立体的に見えてきそうです。
「自由闊達にして愉快なる理想工場」——書いた本人が忘れていた設立趣意書
終戦の翌年、井深大は東京通信工業の設立にあたり、自ら筆を執って設立趣意書を書きました。会社創立の目的の筆頭は「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」。ところが井深は設立準備のゴタゴタでその存在をすっかり忘れ、後に取締役から見せられて「なかなか良いことを書いたんだなあ」と自ら感心した——という顛末が公式社史に残っています。
それでも設立式での井深の挨拶は、趣意書と寸分違いませんでした。「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある」。資本金19万円、総勢二十数名の出発でした。この趣意書は今もソニーグループの原点として公式サイトに全文が掲げられています。
「失敗作第1号」——電気炊飯器
東京通信研究所(東通工の前身)が終戦直後に手がけた商品のひとつが、電気炊飯器でした。木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもので、水加減や米の種類によって芯が残ったりお粥になったりと、うまく炊けることのほうがまれでした。
公式社史はこれを「初めての失敗作第1号となった記念すべき商品」と記しています。会社はラジオの修理・改造と真空管電圧計の官庁納入で食いつなぎ、1945年の暮れには仕事が軌道に乗り始めました。最初の失敗は、隠されるどころか「記念すべき商品」として社史に堂々と記録されています。
「もの言う紙」は売れなかった——テープレコーダーG型の教訓
1950年に発売した日本初のテープレコーダーG型は、16万円・重さ35kg。日本初の画期的な商品だから必ず売れる、という井深たちの読みは完全に外れました。デモを見た客は面白がって遊んでも、誰も買おうとは言いません。盛田昭夫は宴会場まで機械を持ち込んで実演させられた挙句、1台も売れませんでした。
盛田たちは売り方を根本から考え直し、学校の視聴覚教育に市場を見出します。テープレコーダーの使い方そのものを教える普及活動を全国で展開し、やがて全国の学校の必需品になっていきました。「良いものさえ作れば売れる」は通用しません。市場は自分で作るもの——この失敗はそんな教訓を残しました。
特許料2万5,000ドル——「町工場」が挑んだトランジスタ
1952年に渡米した井深は、米WE社がトランジスタの製造特許を公開すると聞きつけました。帰国後に製造許可を求めた先の通産省の返事は「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」。日本を代表する大企業ですら米国からの全面技術供与に頼るなか、町工場に毛の生えた程度の東通工が特許権だけを買い取るのは無謀だ、という見立てでした。
それでも東通工は特許使用料2万5,000ドル(約900万円)の契約を進めます。WE社の技術者に「補聴器を作れ」と勧められたのを退け、井深は誰もが買える大衆商品——ラジオを狙うと宣言しました。1955年、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」が生まれています。
芸大生にかみつかれた井深——大賀典雄という拾いもの
1950年、増資の縁で東通工を訪ねてきた東京芸術大学の学生・大賀典雄は、テープレコーダーG型の音質に細かい注文を付け、改良すべき点を仕様書にまとめて提出までしました。専門用語でまくし立ててあしらうつもりだった井深は、逆にかみつかれ、「テープレコーダーの知識は玄人以上の本物だ」とこの学生を気に入ってしまいます。
大賀は誰が任命したわけでもない「無給の監督官」として東通工に出入りするようになり、1953年に嘱託契約、1959年に正式入社しました。1982年にはソニーの代表取締役社長に就いています。うるさい客を追い返さず、社長にまでした会社なのです。
48億ドルの賭けと2,652億円の減損——ハリウッド買収
1989年、ソニーは米コロンビア・ピクチャーズを48億ドルで買収しました。バブル期の日本企業による米国買収ラッシュのさなか、「日本企業がアメリカの魂を買いあさっている」と批判され、社内にも「素人のソニーが映画ビジネスで儲けられるはずがない」という反対の声があったと、買収実務を担った元経営戦略本部長は回想しています。
映画事業は買収後に迷走し、1995年には営業権(のれん企業買収の際、買収先の純資産額を上回って支払った金額を計上する無形の資産項目。)の減損損失2,652億円を計上しました。それでもソニーは映画を手放しませんでした。ソニー・ピクチャーズは今もハリウッド大手の一角を占め、映画はグループの収益の柱のひとつであり続けています。
ストップ安が2日続いた——「ソニーショック」
2003年、決算発表の翌営業日からソニー株は2日連続でストップ安を付けました。株価は3,720円から2,720円へ。連結営業利益の大幅な減益見通しが、優良企業の代名詞だったソニーへの信頼を直撃しました。
売買が成立しない異常事態は市場全体に波及し、日経平均株価はバブル崩壊後の最安値を2日連続で更新します。日本の株式市場には「困ったときのソニー頼み」という格言があったほどの銘柄が、逆に市場を沈ませました。「ソニーショック」として金融経済史に刻まれた出来事です。
売るほど赤字の逆ざや——プレイステーション3と平井改革
2006年発売のプレイステーション3は、製造コストが販売価格を上回る「逆ざや」で売り出されました。2007年3月期のゲーム事業は2,323億円の営業赤字(前期は87億円の黒字)。在庫の評価減も重なり、赤字はさらに膨らみました。エレクトロニクスの不振も続き、2012年3月期には連結最終赤字が過去最悪の5,200億円に達する見通しとなります。
その渦中で社長に就任した平井一夫は「ソニーが変わるのは今しかない」と語り、「One Sony」を掲げて構造改革に踏み込みました。ゲーム事業はやがてネットワークサービスの拡大に支えられて息を吹き返し、いまやグループ最大の売上を持つ柱になっています。売るほど赤字だった事業が、最大の稼ぎ頭に化けたのです。
