タクシー会社に食品事業——任天堂は何度も畑違いに手を出しては、撤退を繰り返した。 それでも「遊び」ひとつで、何度でも立ち上がってきた。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約4.7倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
任天堂の業績は、数年ごとのゲーム機の世代交代で大きく波打ちます。WiiからWii Uへの移行では営業赤字が3期続き、Switchへの移行では売上が2倍以上になりました。次の焦点は、Switch 2の普及がどこまで続くかと、映画やテーマパークなどのIP事業が「ヒットの谷」を埋める第2の柱に育つかどうか。この2つを分けて眺めると、決算のニュースがぐっと読みやすくなります。
「大統領」——ばくち打ちが認めた花札
創業者の山内房治郎は手先の器用な職人で、色むら・キズ・張りむらのない花札を作ったと伝えられています。当時のプロのばくち打ちは、1組の花札を一度しか使いませんでした。勝負のたびに新品をおろすのです。札に目印をつけるイカサマを防ぐため、品質にもっとも厳しいお客だったわけです。房治郎は最高品質の札にナポレオンの絵柄をあしらい、「大統領」のブランドで売り出しました。
1902年、かるた類への課税で業界が沈むと、輸入品ばかりだったトランプの国産化に踏み切って生き延びます。たばこ王・村井吉兵衛の販売網を借りて全国に販路を広げ、京都の花札屋は、小さいながらも手堅いカードメーカーとして全国に名を知られるようになりました。
祖父の急病——22歳の大学生が任天堂の社長になった
大学4年生だった山内溥は、祖父が病に倒れたため大学を中退して京都に戻り、22歳で任天堂の3代目社長に就きました。工場の集約のため創業以来初めて融資を受けると、古参の従業員が反発し、数か月に及ぶストライキに直面します。
新設した工場で1年以上かけて開発したのが、日本初のプラスチック製トランプでした。値段は従来の倍近く、当初は伸び悩みましたが、品質で浸透します。その数年後には米ウォルト・ディズニーと交渉し、ミッキーマウスを絵柄にしたトランプを発売。テレビCMと遊び方のルールブックで子どもたちに爆発的に売れ、1962年の株式上場につながりました。
「ふぐ茶漬け」の大失敗——任天堂が娯楽一本に絞った理由
カード事業の将来に不安を抱いた山内溥は、タクシー会社「ダイヤ交通」を設立しました。トランプのダイヤをエンブレムに掲げ、ピーク時には40台近い営業車両を抱えます。ですが労働組合との対立をきっかけに、名鉄グループへ譲渡して撤退しました。食品事業でもインスタントライスや「ふぐ茶漬け」「ポパイラーメン」を売り出しましたが振るわず、撤退しています。
折しも本業のディズニートランプも売上が落ち、会社は将棋やマージャン牌を売って食いつなぎました。山内溥は後年、岩田聡に社長を譲る際、異業種には絶対に手を出すなと厳命したと伝えられています。娯楽に専念する任天堂の姿勢は、この失敗の時代に固まりました。
レーザークレー射撃——50億円の負債を抱えた挑戦
ボウリングブームの終わりを予感した山内溥は、閉鎖が相次ぐボウリング場の跡地を光線銃の射撃場に変える「レーザークレー射撃システム」を1973年に立ち上げました。スクリーンに映る円盤を光線銃で撃ち落とす新しい遊びに、全国から注文が殺到します——が、同じ年の第1次オイルショックでキャンセルが続出しました。
翌年の売上高は前の年より約2割少ない35億円まで落ち込み、負債は50億円に膨らみます。社運を賭けた投資は裏目に出ました。それでも、このときに得たエレクトロニクス技術と販売ルートは無駄になりません。後のアーケードゲーム進出と、100万台を売った家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15・6」(1977年)に生きることになります。
新幹線の暇つぶし——電卓を遊びに変えた携帯ヒット
ゲーム&ウオッチの誕生は、開発部長の横井軍平が新幹線の中で電卓で遊んでいる人を見たのがきっかけだった——と、任天堂の公式インタビューで語られています。実際に採用されたのは電卓用と同じチップでした。8桁の電卓が表示に使う72個の「セグメント」を、数字ではなく絵に置き換えてゲームにしたのです。
時刻表示のコロン1個分のセグメントさえ節約したい——開発者は後年そう振り返っています。得点の千の位は「1」しか表示できず、最高得点は「1999」でした。1980年の第1作『ボール』から約6年で59タイトルが大ヒットし、任天堂の売上高は翌年600億円へと急伸します。レジャー事業で抱えた負債を完済し、この資金がファミコン開発に注がれていきました。
15億円の負債を完済した男——岩田聡、異例の登板
1992年、ゲーム開発会社HAL研究所が多額の負債を抱えて経営危機に陥りました。翌年、社長として再建を託されたのがプログラマの岩田聡です。15億円の負債を6年で完済しました。
この手腕を買った山内溥は2000年に岩田を任天堂へ迎え、入社2年目で社長に指名します。創業以来ずっと山内家が経営してきた会社での大抜擢は、きわめて異例と受け止められました。岩田が掲げたテーマは「ゲーム人口を拡大する」。タッチペンのDSと体を動かすWiiで、ゲームをしない人までもお客に変えていきました。
「NX」という置き土産——Switchが継いだ逆転劇
Wii Uは、売れるほど赤字が増える「逆ざや」価格で発売したうえ、発売直後には新作ソフトの供給が途切れ、失速しました。任天堂は長年、携帯機と据置機を別ラインで開発してきましたが、この失敗を機に開発体制そのものを見直します。
岩田が遺した後継機「NX」計画は、携帯機と据置機を一体にするという賭けでした。「持ち運べる据置機」という前例のない発想は社内でも賛否が分かれましたが、この賭けが任天堂を一度沈んだ場所から引き上げました。
