世界中でLNGプラントを建設してきた会社、日揮ホールディングス。 石油精製の特許を売る商売から出発し、いまや世界のLNG生産量の3割以上を手がける企業に育った。 大きな工事を一括で請け負う商売は、栄光と巨額の損失を、何度も繰り返しもたらしてきた。

01

創業から現在へ — ストーリー

1928 — 1934
製油所の夢を断念、特許を売る商売から出発
1928年、実吉雅郎らは東京・麹町に日本揮発油株式会社を設立しました。当初の構想は、国内に製油所を建設・運営してガソリンや灯油を販売することでした。ですが翌年に世界恐慌が起こり、資金調達の環境は急速に悪化します。日本揮発油は「諸般の事情」でこの計画を断念しました。代わりに選んだのが、アメリカのUOP社が持つ石油精製の特許を国内の石油会社に売るライセンス業で、この特許商売が資金難の創業期を支えました
1934 — 1956
設計料が特許使用料を逆転、エンジニアリング会社へ
日本揮発油は1934年、海軍燃料廠向けの装置建設を通じてエンジニアリング事業に本格参入しました。1943年には設計料による収入が特許使用権収入を上回り、事業の性質が変わっていきます。戦後の1956年には、出光興産の徳山製油所で日本初のグラスルーツ(新設)製油所を受注し、エンジニアリングコントラクターとしての地位を固めました。
1962 — 1973
東証上場から、海外とLNGへ
日本揮発油は1962年に東証二部東京証券取引所の上場区分の一つ。2022年の市場再編で、上場企業はプライム・スタンダード・グロースの3区分に分けられた(それ以前は市場第一部・第二部やマザーズと呼ばれていた)。、1969年に東証一部東京証券取引所の上場区分の一つ。2022年の市場再編で、上場企業はプライム・スタンダード・グロースの3区分に分けられた(それ以前は市場第一部・第二部やマザーズと呼ばれていた)。へ上場しました。1968年にはアルジェリア・ブルネイ・シンガポールなどで海外案件を相次いで受注し、成長の軸足が国内から海外へ移ります。1973年には米プロコン社と組み、ブルネイで初のLNG(液化天然ガス)プラントを受注しました。
1972 — 1991
50億円の赤字と円高、社名変更をはさんだ立て直し
1972年、日本揮発油はアルジェリアの製油所プロジェクトで約50億円の赤字を計上しました。1976年、社名を「日揮」に改めると同時に、アルジェリアの大型ガスプラントを1,450億円で受注します。ですが1985年のプラザ合意後の円高が直撃し、4期連続の営業赤字に沈みました。1988年に就任した渡辺英二社長は海外調達比率を引き上げる改革を進め、1991年に営業黒字を取り戻しています。
1998 — 2013
通貨危機からの回復、そしてイナメナスの悲劇
1998年、アジア通貨危機の影響で日揮は2期連続の最終赤字に陥りました。その後は資源価格の上昇を追い風に業績を伸ばし、2012年には過去最高の営業利益670億円を計上します。ですが2013年、アルジェリア・イナメナスの天然ガスプラントが武装勢力に襲撃され、日揮関係の従業員10人が犠牲になりました。
2017 — 2022
19年ぶりの最終赤字と、持株会社への転換
2017年3月期、日揮は資源価格の低迷を受け、230億円の最終赤字を計上しました。1998年3月期以来19年ぶりの赤字でした。2019年には持株会社他の会社の株式を保有し、グループ全体の経営管理を担う会社。自らは事業を行わないことが多い。体制に移行し、社名を「日揮ホールディングス」に改めます。2022年3月期には、豪州のイクシスLNGプロジェクトを巡る係争の影響で、純損失は356億円に達しました。
2024 — 2025
2期連続赤字からの立て直しと、次の成長分野
2024年3月期・2025年3月期と、日揮ホールディングスは海外の複数プロジェクトの採算悪化で2期連続の最終赤字に陥りました。石塚忠社長は引責辞任し、佐藤雅之会長がCEOと社長を兼務する体制に移っています。同社はいま、水素・燃料アンモニアやCCS(CO2回収・貯留)といった脱炭素分野を次の成長の柱に据えています。
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
総合エンジニアリング(EPC)事業
石油精製・石油化学プラントなどの設計・調達・建設(EPC)を担う祖業にして中核事業です。LNGプラントでは世界生産量の3割以上を手がけてきた実績があり、近年はCCSや水素・燃料アンモニアなど脱炭素分野にも領域を広げています。
柱 02
ヘルスケア・ライフサイエンス
医療・医薬品の製造施設を計画・建設・運営する事業です。石油プラント建設で培った大規模施設のエンジニアリング力を、医薬品工場などにも応用しています。
柱 03
産業・都市インフラ
半導体工場やデータセンター、空港、スマートファクトリーなど、先端産業に必要な大型施設を手がける事業です。
柱 04
機能材製造事業
触媒やファインケミカル、ファインセラミックスなど、プラントで使う素材そのものを製造する事業です。工場を「造る」だけでなく、工場が使う材料も自社で手がけてきた創業以来の技術の積み重ねがあります。
柱 05
資源循環・エネルギーコンサルティング
廃プラスチックのケミカルリサイクルや持続可能な航空燃料(SAF)の開発、脱炭素に向けたコンサルティングを手がける事業です。次の収益の柱として育てている分野です。
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投資指標

株価
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配当利回り
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年間予想
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円換算
52週高値
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52週安値
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過去1年

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投資家の博士

投資家目線のポイント

日揮ホールディングスの業績は、決まった金額で工事を丸ごと引き受ける一括請負(ランプサム)契約の特性に左右されやすい面があります。工期の延びや資材・人件費の想定超えが、受注した後になって損失として表れることがあり、過去に繰り返し起きてきた大型プロジェクトの損失は、この契約形態のリスクを映しています。

LNGや水素・アンモニアといったエネルギー関連の受注は、国のエネルギー政策や資源価格といった外部環境に左右されやすい面があります。受注から完工まで数年かかる業種のため、当期の受注動向は数年後の業績を映す先行指標として読む視点が参考になりそうです。

製油所を諦め、特許を売る商売に転じた創業

1928年、実吉雅郎らは東京・麹町に日本揮発油株式会社を設立しました。当初の構想は、国内に製油所を建設・運営してガソリンや灯油、軽油を販売することでした。

ですが翌年、世界恐慌が起こります。資金調達の環境は急速に悪化し、日本揮発油は「諸般の事情」でこの計画を断念しました。代わりに選んだのが、アメリカのUOP社が持つ石油精製の特許を、国内の石油会社に売るライセンス業でした。工場を自分で持つのではなく、工場を造る技術を売るという選択が、この会社のその後の姿を決めています。

設計料が特許使用料を追い抜いた日——日本初のエンジニアリング会社へ

1934年、日本揮発油は海軍燃料廠向けの装置建設を通じてエンジニアリング事業に本格参入しました。1943年には、設計料による収入が、それまで柱だった特許使用料の収入を追い抜きます

この逆転は、日本揮発油が「特許を売る会社」から「工場をまるごと設計・建設する会社」へ変わったことを示す出来事でした。戦後の1956年には、出光興産の徳山製油所で日本初のグラスルーツ(新設)製油所を受注し、エンジニアリングコントラクターとしての地位を固めています。

初めてのLNG——ブルネイの海の向こうへ

日本揮発油は1973年、アメリカのプロコン社と組んで、ブルネイでLNG(液化天然ガス)プラントの設計・調達・建設を受注しました。日揮グループにとって初めてのLNG案件でした。

天然ガスを液化天然ガスに加工するためのプラントで、マイナス162度の超低温プロセス技術が使われました。1973年に第1〜4系列、1975年に第5系列が完工しました。この一件を起点に、日揮は世界のLNG生産量の3割以上を手がけるコントラクターへ育っていきます。

50億円の赤字——一括請負の怖さを最初に知った日

1972年、日本揮発油はアルジェリアの製油所プロジェクトで約50億円の赤字を計上しました。決まった金額で工事を丸ごと引き受けるランプサム契約では、想定外のコスト増加をすべて自社が背負うことになります。そのリスクが初めて表に出た出来事でした。

それでも日本揮発油は海外事業から退きませんでした。1976年、社名を「日揮」に改めると同時に、アルジェリアの大型ガスプラントを1,450億円で受注しています。失敗した国から、さらに大きな仕事を取りに行った格好でした。

円高で沈んだ4期連続赤字と、海外調達への転換

1985年のプラザ合意後、急激な円高が日揮を襲いました。海外の工事の採算が目減りし、4期連続の営業赤字に沈みます。

1988年に社長に就いた渡辺英二は、資材や機器の調達先を海外に広げ、海外調達比率を50%まで引き上げる改革を進めました。1991年、日揮は営業黒字を取り戻しています。円高を理由に事業を縮めるのではなく、調達の仕組みそのものを海外にひらいた転換でした。

イナメナスの悲劇——10人の従業員を失った日

2013年、アルジェリア東部イナメナスの天然ガスプラントが、アルカイダ系の武装集団に襲撃されました。日揮関係の従業員10人全員が命を落としました。事件全体では、日本人・フィリピン人・英国人・ノルウェー人・米国人ら合わせて約40人が亡くなったと伝えられています。

日揮は横浜本社に半旗を掲げ、犠牲者に弔意を示しました。事件を教訓に、危機管理体制を「事後対応型」から「事前対策型」へ転換したと報じられています。セキュリティー対策部門を社長直轄の本部に格上げし、大きなリスクが予知された国や地域では仕事をしないという方針を掲げるようになりました。

19年ぶりの最終赤字——資源価格の低迷が業績を押し下げる

2017年3月期、日揮は連結最終損益で230億円の赤字を計上しました。前の期の427億円の黒字から一転しての赤字で、1998年3月期以来19年ぶりの最終赤字でした。

資源価格の低迷が主な要因でした。日揮はこの後、事業の構造そのものを見直す方向に動いていきます。

終わったはずの仕事が再び火を噴いた——イクシスLNGの係争

2022年3月期、日揮ホールディングスは豪州のイクシスLNGプロジェクト(2012年受注)を巡り、発注元のINPEXらとの費用負担の係争が長引いたことを受けて特別損失を計上しました。共同で受注していた千代田化工建設も、同じ時期に最終赤字に転落しています。

日揮ホールディングスの同期の純損失は356億円にのぼりました。工事が完工した後の案件でも、費用負担を巡る争いが数年越しに業績を揺さぶることを示した一件でした。

2期連続赤字と社長交代——脱炭素という次の柱へ

2024年3月期、2025年3月期と、日揮ホールディングスは海外の複数プロジェクトで2期連続の最終赤字に陥りました。タイの化学プラントやサウジアラビアの石油・ガス関連案件など、複数の海外案件で設計品質の不備や工期遅延による追加費用がかさんだためです。

石塚忠社長は引責辞任し、佐藤雅之会長がCEOと社長を兼務する体制に移りました。日揮ホールディングスはいま、水素・燃料アンモニアやCCS(CO2回収・貯留)といった脱炭素分野を次の成長の柱に据え、ヘルスケアや半導体関連施設にも事業を広げています。