化粧品最大手・資生堂は、1872年、銀座の洋風調剤薬局として始まった。 創業者の息子・福原信三は、花椿のマークを掲げ、薬から「美」を売る会社へと舵を切った。 いまは中国事業の失速と向き合いながらも、世界120か国余りで戦い続けている。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.1倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
中国事業とトラベルリテール事業は、数年単位で急拡大・急収縮しやすい構造です。決算を見るときは、国内・中国・トラベルリテールなど地域別の数字がどちらに動いているかを見る視点が参考になりそうです。
資生堂は海外ブランドの買収でグローバル化を進めてきましたが、買収した資産の価値を切り下げる「減損」が業績を大きく揺らす場面が増えています。新しいブランド買収のニュースに接したときは、その後の減損リスクにも目を向ける視点が参考になりそうです。
「至哉坤元 万物資生」——易経から採った社名の意味
1872年、福原有信は東京・銀座に日本初の民間洋風調剤薬局を開きました。西洋医学にもとづく薬局でありながら、社名には中国の古典『易経』の一節「至哉坤元 万物資生」を選んでいます。資生堂の公式サイトは、この一節を「大地の徳はなんと素晴らしいものであろうか」という意味だと説明しています。
西洋の最先端の薬学を土台にしながら、名前は東洋の古典から取る——この東西を掛け合わせる感覚が、資生堂という会社の出発点にありました。公式サイトはこの選択を「東西文明の融合を象徴する」と説明しています。
花椿マーク——水に浮かべた椿の花びらから生まれた意匠
創業者の息子・福原信三は1915年、事業の中心を化粧品へ移すにあたり、新しい商標を必要としていました。信三が考えたのは、水を張ったガラスの器に椿の花弁と葉を浮かべ、ただようその様子を描く、という発想でした。
信三が描いたスケッチをもとに、宣伝部員の山名文夫らが図案として仕上げ、もともと9枚だった椿の葉は7枚に整理されました。当時の主力商品「花椿香油」の人気にあやかり、日本らしい意匠を海外にも通じさせたいという狙いもあったと、資生堂公式のブランドメディアは説明しています。
銀座の「ソーダファウンテン」——薬局から生まれた洋食の名物
1900年、福原有信はパリ万博を視察し、アメリカを経由して帰国しました。その経験をもとに、調剤薬局の中にアメリカのドラッグストア文化を持ち込みます。1902年、薬局内に日本初となる「ソーダファウンテン」を設置し、当時珍しかったアイスクリームとソーダ水を提供しました。
この飲食部門はのちに資生堂パーラーとなり、銀座の名物になっていきます。看板メニューの「ミートクロケット」は1931年、当時の総調理長が皇太子(のちの昭和天皇)の欧州渡航を送る午餐で出されたフォアグラ料理に着想を得て考案した、と伝えられています。薬局から生まれたレストランは、いまも同じ味を提供し続けています。
「チェインストア制度」——震災の混乱から生まれた全国ネットワーク
関東大震災は、資生堂の流通のあり方を変えるきっかけになりました。震災後の混乱のなか、資生堂は取引先の問屋を自社製品専門の販売会社に組み替え、株式を各店舗に持たせる二段構えの「チェインストア制度」を導入します。
この仕組みは戦後さらに広がり、1973年時点で販売会社89社・傘下約1万6000店という全国ネットワークに育ちました。当時の業界紙は、資生堂を家電の松下電器と並ぶマーケティング企業として紹介しています。
「小売店に過保護だった」——大野良雄が認めた構造的つまずき
1980年代、消費者は年齢や立地に応じて商品を選び分けるようになっていきます。資生堂が続けてきた多品種化戦略は、この変化についていけず、「在庫増加だけ」に終わったと後に評価されました。
1983年、大野良雄社長は自ら築いてきたチェインストア政策を「小売店に過保護だった」と認めます。1987年には販売会社に積み上がった在庫を一括回収する是正策を実施しました。同じ年、大野は社長在任中に急死しており、約2万人の社員と約2万5000軒のチェーン店を統制する重圧が、その背景として論じられています。栄光を生んだ仕組みが、そのまま重荷にもなった時期でした。
「動け、資生堂。」——VISION 2020とグローバル買収攻勢
2014年、外部出身の魚谷雅彦が社長に就任しました。翌年、資生堂は中長期戦略「VISION 2020」を打ち出します。メインテーマは「動け、資生堂。」。静的なイメージを打ち破り、スピード感のある企業へ変わることを掲げました。
資生堂はこれ以前の2010年に米ベアエッセンシャルを買収しており、この「動け、資生堂。」の方針のもとでも2019年に米スキンケアブランド「ドランク・エレファント」を約900億円で買収し、北米のクリーンビューティー市場に参入しました。研究員を1,000名から1,500名に増やすなど、研究開発への投資も広げています。
パーソナルケア事業売却——低価格帯を手放し、プレステージへ絞る
2015年ごろから中高価格帯ブランドを重視してきた資生堂は、2021年、大きな決断をします。「ツバキ」「専科」「ウーノ」など低価格帯のパーソナルケア事業を、投資ファンドのCVCキャピタル・パートナーズ系企業に約1,600億円で譲渡したと伝えられています。
資生堂は新会社の親会社の株式35%を保有し続け、完全に手を引いたわけではありません。ですが、広告宣伝費のかかるマス市場向けブランドを切り離し、高価格帯のスキンビューティー領域に経営資源を集める方針を明確にしました。「2030年までにこの領域における世界のNo.1企業になる」ことを、資生堂は目標に掲げています。
「過去最大の赤字」——中国減速とドランク・エレファントの誤算
2023年、福島第一原発の処理水放出をきっかけに、中国のSNSで日本製化粧品の不買が呼びかけられました。資生堂もその対象になり、主力ブランド「SHISEIDO」は中国の価格競争に巻き込まれていきます。2024年には資生堂ジャパンで1,500人規模の早期退職を募集し、1,477人が応募しました。
2025年12月期は、期待して買収した米ブランド「ドランク・エレファント」の不振による468億円の減損も重なり、最終損益は520億円の赤字となりました。会計基準の変更を考慮しない比較では、2001年3月期を超える過去最大の赤字です。それでも資生堂は、いまも世界約120の国と地域で事業を展開する、世界シェア第5位の化粧品会社であり続けています。銀座の薬局から始まった150年余りの歩みは、まだ終わっていません。
