血圧計や自動改札機で知られるオムロン。 大阪の小さな町工場は、創業者・立石一真のもとで「世界初」を連発する企業になった。 祖業だった部品事業を手放してもなお、この会社は姿を変え続けている。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上はほぼ横ばい
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
オムロンは祖業だった電子部品事業を売却するなど、事業の入れ替えを繰り返してきた会社です。どの事業を伸ばし、どの事業を手放すかという経営判断そのものが、この会社を見るときの重要な視点になりそうです。
血圧計や自動改札機のように、社会インフラや生活に溶け込んだ製品を数多く手がけています。ニュースで大きく取り上げられにくい分、身の回りの製品からこの会社の存在を意識してみると、業績のイメージがつかみやすくなるかもしれません。
「オムロン」——女性向け整髪器から生まれた社名
1946年、立石一真は女性向けのヘアパーマ用アイロンを開発しました。「立石電機製作所」という社名は堅すぎると考えた立石は、女性用商品にふさわしいやわらかな響きのブランド名として「オムロン」を考案します。
1958年、制御機器事業の展開と輸出の拡大にともない、世界中どの言語でも「オムロン」と発音される綴り「OMRON」に変更し、商標登録しました。1959年から全商品に使われるようになり、1990年、正式に社名も「オムロン株式会社」になりました。ちなみに「オムロン」という響きは、本社があった京都・御室(おむろ)の地名にも通じています。
レントゲン撮影用タイマーからの出発、どん底の33人体制
1933年、立石電機製作所が最初に売り出した製品は、レントゲン撮影用のタイマーでした。ですが、市場はごく小さく、事業として広がりませんでした。
1945年には工場が空襲で全焼するという試練も重なります。戦後の混乱期には社員がわずか33人にまで減るという、創業以来もっとも苦しい時期を経験しました。それでも立石電機はそこから制御機器メーカーとして立て直しを進め、1950年代から60年代にかけて次々と「世界初」の製品を生み出していくことになります。
社憲「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」
1959年、立石一真は社憲を制定しました。「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」という言葉です。ここでいう「われわれ」は、自社の社員だけでなく、社会全体のあらゆるステークホルダーを指すと説明されています。
創業から90年以上を経た現在も、オムロンはこの社憲を「どのような企業体になろうとも不変な価値観であり、存在意義」として掲げ続けていると説明しています。
「北千里駅」の3年間——世界初の自動改札機ができるまで
1964年、立石電機は近畿日本鉄道・大阪大学と共同で、自動改札機の開発に着手しました。きっかけは、激増する利用客に駅員の「切符切り」が追いつかなくなっていたことです。開発チームは日本独自の「ノーマルオープンゲート方式」を考案し、近鉄の駅で実証実験を重ねます。
1967年、阪急電鉄が開発を引き継ぐ形で、千里線北千里駅に世界初の自動改札機を実用機として設置しました。この実用化は2007年、権威ある「IEEEマイルストーン」にも認定されています。都市の混雑という社会課題が、世界初の技術を生んだ出来事でした。
三菱銀行に納めた、世界初のオンライン現金自動支払機
1971年、立石電機は三菱銀行本店に、オンラインシステムに直接組み込まれた世界初の現金自動支払機を納入します。銀行の勘定系システムとつながることで、その場で残高を確認しながら現金を引き出せるようになりました。今では当たり前のATMの仕組みが、ここから始まっています。
SINIC理論——大阪万博の年に描いた未来予測
1970年、大阪で万国博覧会が開かれたその年、立石一真は国際未来学会で独自の未来予測理論を発表しました。「SINIC理論」と呼ばれるこの理論は、科学・技術・社会が互いに影響し合いながら螺旋状に発展していく、という考え方をモデル化したものです。
コンピュータもインターネットも存在しなかった時代の理論ですが、情報化社会の到来など、21世紀前半までの社会の姿を高い精度で描き出したと説明されています。理論では、2025年ごろから「自律社会」、2033年以降に「自然社会」が訪れるとされており、半世紀以上前の理論が今も参照され続けている点が特徴です。
「保護より機会を」——オムロン太陽と日本初の福祉工場
1972年、大分県別府市に「オムロン太陽」という会社が生まれました。障がい者スポーツの普及に尽くした中村裕博士が創設した社会福祉法人「太陽の家」と、オムロン・立石一真が共同で出資した、日本初の福祉工場です。
中村博士は「世に身心障がい者はあっても、仕事に障がいはあり得ない」という信念を掲げていました。立石も「企業は社会の公器である」という考えを持っており、二つの思想が響き合って会社が生まれたと伝えられています。チャリティーではなく、障がいのある人が自らの力を活かして働き、自立する機会をつくることにこだわった取り組みでした。
「健康工学」という発想——血圧計とヘルスケア事業の原点
1949年ごろ、立石一真の妻・元子は出産後に体の不調を訴え、診断の結果、深刻な病気であることが分かりました。当時は早期発見がかなわず、まもなく亡くなったと伝えられています。
この出来事をきっかけに、立石は日頃からの健康管理の大切さを痛感したとされます。1961年、中央研究所に研究拠点を設け、人の体をオートメーションの技術で計測・管理するという「健康工学」の研究を始めました。1973年、この研究から家庭用血圧計の1号機が生まれます。オムロンのヘルスケア事業は、創業者個人の悲しい経験を出発点のひとつにしています。
創業家不在の取締役会——事業の選択と集中、そして最高益への回復
オムロンは2012年ごろからROIC事業に投じた資金に対して、どれだけ利益を生み出したかを示す指標。(投下資本利益率)を軸にした経営を本格的に導入し、収益性の低い事業からの撤退を進めてきました。2015年に米アデプト・テクノロジー社を買収してロボット領域に参入する一方、2019年には車載電装事業をニデックへ、2021年にはATM事業の合弁会社の持ち株を日立側へと譲渡しています。
2023年、辻永順太が社長に就任し、創業以来初めて取締役に創業家出身者がいない体制になりました。同じ年、医療ビッグデータのJMDCを子会社化しています。2024年には構造改革プログラム「NEXT2025」で約2,000名の人員削減を実施し、2026年には祖業だった電子部品事業をカーライル・グループへ売却すると発表しました。厳しい選択が続いた数年でしたが、この間、AI需要を追い風に制御機器事業の業績は回復に向かっています。
