エアコンでおなじみのダイキン工業は、大阪の小さな金属加工会社から始まった。 かつては大砲の弾も手がけていたこの会社は、フロン(冷媒)開発を機に空調へ転じた。 いまや空調事業の売上高は世界一。フッ素化学を二本目の柱に据える異色の専業メーカーだ。

01

創業から現在へ — ストーリー

1924 — 1934
元砲兵工廠の技師が、大阪に金属加工会社を興す
1924年、大阪砲兵工廠で工場長を務めていた山田晁は、大阪市に合資会社大阪金属工業所を設立しました。飛行機用ラジエーターチューブの生産から始まり、山田の人脈を通じて陸海軍向けの受注が増えていきます。1934年には株式会社として改組し、住友と資本提携を結びました。
1933 — 1945
フロン開発で、冷媒事業に参入
1933年、ダイキンはフッ素系冷媒の研究に着手し、1935年に国内で初めてフルオロカーボンガスの生産に成功しました。金属加工の会社が、空調機器と冷媒の両方をつくる企業へと変わっていきます。戦時中は軍需製品の増産が続きましたが、1945年の敗戦で受注は途絶え、大規模な人員整理に踏み切ったと伝えられています。
1949 — 1958
朝鮮戦争特需を経て、民需の空調へ
1949年に大阪証券取引所へ上場したダイキンは、1951年、日本初のパッケージ形エアコンを開発しました。1952年には朝鮮戦争にともなう特需戦争や災害など特別な事情で一時的に発生する大きな需要。で米軍からの迫撃砲弾受注を受けて息を吹き返し、この特需で得た資金を冷凍機やフロンといった平時の事業にさらに振り向けたと報じられています。こうして砲弾メーカーから空調メーカーへの転身を進め、1958年にはルームエアコン事業にも進出しています。
1963 — 1988
社名変更と海外進出、ココム違反という試練
1963年、大阪金属工業からダイキン工業へ社名を変更しました。1972年にはベルギーに欧州拠点ダイキンヨーロッパを設立しましたが、この時点では本格的な展開には至りませんでした。1975年の石油危機では経常赤字に転落して人員整理を行い、1988年にはフッ素化学製品の輸出をめぐってココム規制違反の疑いで家宅捜索を受けました。
1994 — 2009
空調集中の改革と、リーマン後の減収
1994年、業績低迷を受けて空調抜本的改革計画を立て、多角化を中止して空調事業への集中投資を打ち出したと伝えられています。1995年には上海に合弁会社を設立するなど、中国・アジアへの展開も進めました。2006年にはマレーシアのOYL社を買収しましたが、2009年、世界金融危機の影響で15年ぶりの減収減益に陥っています。
2012 — 2024
グッドマン買収から、創業100周年へ
2012年、ダイキンは米国の住宅用空調大手グッドマン社を買収し、北米市場への本格参入を進めました。2017年にはテキサス州に拠点を集約する新工場を稼働させ、2022年には社名とブランドを統合しています。2024年、ダイキンは創業100周年を迎え、同じ年に竹中直文が新しい社長に就任しました。
TEN YEARS

10年で、売上は約2.5倍

6兆円
3兆円
2017 · · · · · · · · 2026
売上 純利益(手元に残った利益)
売上
10年前
20,440億円
現在
50,150億円
約2.5倍に増加
純利益
(手元に残った利益)
10年前
1,539億円
現在
2,752億円
売上100円につき約5円
従業員
10年前
67,036
現在
104,095
約1.6倍に増加
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
空調事業
業務用エアコンやビル用マルチエアコン、家庭用ルームエアコンなどを手がける、ダイキン最大の事業です。空調機器の売上高で世界一の座を保っています。
柱 02
化学事業(フッ素化学)
冷媒や樹脂、ゴムなど、多様な特性を持つフッ素化合物を開発する事業です。フッ素化学製品では世界2位のシェアを持つとされ、空調事業を支える収益源になっています。
柱 03
フィルタ事業
空調と化学、両方の技術を組み合わせて生まれた事業です。大気汚染対策や、製薬・食品業界向けの衛生管理用フィルタを手がけています。
柱 04
特機事業(防衛関連製品)
創業初期から手がけてきた金属加工技術を受け継ぐ事業です。現在は防衛省向け製品に加え、在宅酸素医療用機器などにも技術を応用しています。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
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——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

投資家の博士

投資家目線のポイント

海外売上比率は8割を超えており、為替(特に円とドル)の変動が業績に影響しやすい構造です。北米では2012年のグッドマン社買収以降、ダクト式天井裏などに通した配管(ダクト)で、複数の部屋へまとめて冷暖房を送る空調方式。米国の住宅で主流。空調という現地仕様への対応を進めてきました。北米事業の動向は、この会社がどこまでグローバル企業へ変われたかを測る目安になりそうです。

空調とフッ素化学(冷媒)を一緒に手がける企業は世界でも珍しく、冷媒の環境規制が変わるたびに技術対応力が問われます。次世代冷媒への切り替えのニュースに接したときは、規制対応の速さという視点で見ると理解しやすいかもしれません。

元砲兵工廠の技師が興した、大阪の町工場

ダイキン工業の始まりは、1924年に大阪で創業した合資会社大阪金属工業所です。創業者の山田晁は大阪砲兵工廠で工場長を務めていた技術者で、退官してこの会社を興したと伝えられています。当初の事業は飛行機用ラジエーターチューブの製造で、従業員は15人に満たない小さな町工場だったとされています。

山田の砲兵工廠時代の人脈から、やがて陸軍・海軍向けの受注が増えていきました。金属加工の技術者が興した会社が、軍需の波に乗って事業を広げていく。それがダイキンの出発点です。

「フロン」——新聞記事がひらいた冷媒事業

1933年、ダイキンは技術顧問の進言をきっかけにフッ素系冷媒の研究を始めました。技術顧問の太田十男は、米海軍の潜水艦が新型冷媒を採用したという新聞記事に着目し、研究を持ちかけたと伝えられています。

2年後の1935年、ダイキンは国内で初めてフルオロカーボンガスの生産に成功しました。金属加工の会社が、冷媒という化学の分野にも足を踏み入れた瞬間です。この技術はのちにエアコンの冷媒として使われることになり、空調機器と冷媒を両方つくるという、いまに続く事業構造の土台になりました。

大砲の弾も、エアコンも作った戦時下

1930年代から40年代にかけて、ダイキンは軍需と民需の両方の顔を持っていました。1936年には南海鉄道向けに国内初の電車用冷房ユニットを納入し、1938年には呉海軍工廠へフロン冷媒を使った冷凍機を納めています。同じ会社が、航空機部品や砲弾の生産も担っていました。

1945年の敗戦で、軍需の受注は一気に消えました。戦時中に従業員を大きく増やしていたダイキンは、この年、大規模な人員整理に踏み切ったと伝えられています。平時の仕事をゼロから探す、苦しい時期の始まりでした。

朝鮮戦争特需と、民需への転身

敗戦後、仕事を失いかけていたダイキンに転機が訪れたのは1950年代に入ってからでした。1951年、日本初のパッケージ形エアコンを開発し、平時の事業への転換を進めていました。

1952年、朝鮮戦争にともなう特需で、米軍から迫撃砲弾199万発を受注したと報じられています。この特需で得た資金を、ダイキンは冷凍機やフロンといった平時の事業にさらに振り向けました。軍需で稼いだ資金を民需に注ぎ込むという判断が、いまのダイキンにつながる分かれ道になりました。

「ココム違反」——フロン輸出をめぐる家宅捜索

1988年、ダイキンはフッ素化学製品の輸出をめぐり、対共産圏輸出統制委員会(ココム)の規制に違反した疑いで家宅捜索を受けました。ソ連向けに軍事転用が可能な製品を輸出した疑いがかけられ、社員2名が逮捕される事態になったと伝えられています。

会社としても役員4名が処分を受けました。フロン開発で切りひらいた化学事業が、輸出管理という別の壁にぶつかった出来事です。

空調に集中する決断と、リーマン後の巻き返し

1990年代前半、ダイキンは業績の低迷を受けて事業を見直しました。1994年に空調抜本的改革計画を立て、赤字が続く事業からの撤退と、空調への集中投資を打ち出したと伝えられています。この選択と前後して、上海への進出など海外展開も本格化しました。

2009年、世界金融危機のあおりを受け、ダイキンは15年ぶりの減収減益に陥ったと報じられています。それでも空調とフッ素化学という二本柱を崩さず、その後の海外M&A企業の合併・買収の総称。他社の株式や事業を取得して一体化すること。を通じて事業を立て直していきました。

「グローバルNo.1」を掲げたグッドマン買収と、その後の苦戦

2012年、ダイキンは世界最大の空調市場である北米で存在感を高めるため、住宅用空調大手のグッドマン社を総額37億ドルで買収しました。ダクト式が主流の米国市場に、ダクトレス式日本の家庭用エアコンのように、部屋ごとに設置した室内機で個別に冷暖房する空調方式。で培った技術を持ち込む狙いでした。

ですが北米事業は簡単には軌道に乗りませんでした。当時の十河政則社長は、大型施設向けのセントラル空調市場での苦戦を認めたと報じられています。ダイキンは2017年にグッドマンの拠点を統合したテキサス州の新工場を稼働させ、2022年には社名とブランドを統合しました。この社名変更を発表した2022年の時点で、北米での空調事業の売上高は買収時の2倍以上になったとダイキンは説明していました。

創業100年、竹中直文体制へ

2024年、ダイキンは創業100周年を迎えました。この年、十河政則から竹中直文へと社長の座が引き継がれています。1924年に15人足らずで始まった会社は、いまや世界170以上の国と地域で事業を展開するグループに育ちました。

創業100周年の記念式典では、当時会長を務めていた井上礼之が「創業当時15人の町工場から、世界170以上の国と地域で事業を展開するグローバル企業に変貌し、私自身、隔世の感を覚えている」と、これまでの歩みを振り返ったと伝えられています。式典の時点ではまだ十河政則が社長を務めており、竹中直文への交代はこの前後の出来事でした。