三菱の岩崎家に生まれた男が、一族の名を使わずに興した会社がある。窓や車のフロント、スマホのチップの原版、バイオ医薬品まで、難しいほうへ難しいほうへと事業を広げてきた。易きになじまず、難きにつく。

01

創業から現在へ — ストーリー

1907
岩崎家に生まれた化学者——輸入頼みの板ガラスに挑む
三菱の岩崎家に生まれ、ロンドンで応用化学を学んだ岩崎俊彌が旭硝子を興した。窓ガラスの多くを輸入に頼る国産化の遅れを、自分の手で埋めようとした。
1909
尼崎の窯——日本初の板ガラスは輸入品に届かなかった
ベルギーから職人を招き、手吹きでガラスの筒をつくる製法で操業を始めた。国内で初めて板ガラスを量産したが、品質でも値段でも輸入品にかなわず、在庫が積み上がった。
1917
北九州のソーダ工場——ここから化学の会社にもなった
北九州の工場で、ガラスの原料になるソーダ灰を国内で初めて自前でつくり始めた。本社を東京へ移し、ガラス一本だった会社が化学品にも広がっていく。
1966
海外生まれのフロート法——量産で世界の大手に並ぶ
溶かした金属の上にガラスを流して平らな板を連続でつくる製法を海外から導入し、量産を本格化した。その後ベルギーの老舗グラバーベルを買収し、欧州に足場を築いた。
1995
テレビの中の一枚——液晶用ガラス基板をつくり始めた
パソコンや薄型テレビの画面に使うTFT液晶用ガラス基板の生産を始めた。ブラウン管から薄型への置き換えが一気に進み、電子向けが会社の稼ぎ頭に育っていく。
2016
窯の前を離れた会社——バイオ医薬をつくって渡す仕事へ
微生物や動物細胞で薬をつくる欧米の受託会社を相次いで買収し、バイオ医薬品の製造受託に本格参入した。二年後、百十年あまり名乗った「旭硝子」を「AGC」に改めた。
TEN YEARS

10年で、売上は約1.6倍

2.5兆円
1.2兆円
2016 · · · · · · · · 2025
売上 純利益(会社に残った利益) 赤字だった年
売上
10年前
12,826億円
現在
20,588億円
約1.6倍に増加
純利益
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
10年前
474億円
現在
692億円
売上100円につき約3円
従業員
10年前
50,963
現在
52,896
ほぼ横ばい
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
建築用ガラス
ビルや住宅の窓や外装に使う板ガラス。世界各地の工場でつくり、現地で売ります。
柱 02
自動車用ガラス
車のフロントや窓のガラス。世界の自動車メーカーへ供給し、高いシェアを持ちます。
柱 03
電子・ディスプレイ
スマホやテレビの画面に使うガラスと、半導体をつくるための部材。
柱 04
化学品
苛性ソーダや塩ビ、フッ素樹脂。日本とアジアの工場で量産します。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

「困難は覚悟の上」——三菱の名を借りなかった創業

創業者の岩崎俊彌は、三菱の二代目社長・岩崎彌之助の次男です。学習院から一高を経てロンドン大学へ渡り、応用化学を学びました。日露戦争のあとの日本で、窓ガラスの多くを輸入に頼る状況を、俊彌は経済的な弱さの表れだと受け止めます。板ガラスの国産化は、多くの企業が失敗して投げ出してきた分野でした。それでも俊彌は父にこう告げます。「困難は覚悟の上のこと。生涯をかけてでも国産化は成功させる」。

この会社は三菱合資の事業ではなく、岩崎家の分家の事業という位置づけでした。だから社名に「三菱」は入らず、「旭硝子」として世に出ます。俊彌は経営者であると同時に、生涯をエンジニアで通した人でした。晩年は蘭の栽培に打ち込み、北海道大学へ約2万7,000株の蘭を寄贈しています。会社を人に委ね、50歳でこの世を去りました。

積み上がる在庫——第一次大戦が救った赤字工場

最初の数年は、つくっても売れない日々でした。できあがった板は輸入品に見劣りし、値を下げても買い手がつきません。倉庫は売れ残りでふさがり、赤字はかさんでいきます。それでも俊彌は退きませんでした。

風向きが変わったのは、戸畑に米国式の機械を入れた新工場を動かしたころです。第一次世界大戦でヨーロッパから製品が届かなくなり、注文が国内へなだれ込みました。ふくらんでいた赤字はまたたく間に消え、会社は輸出までこなす優良事業へと姿を変えます。海外に頼らず自前でまかなう体制は、創業から数年をかけて、ようやく整いました。

水も油もはじく——溶かして成形できた世界初のフッ素樹脂

1970年代、旭硝子は長年つちかった化学の技術を、フッ素という素材に振り向けます。フッ素の化合物は水も油もはじき、熱や薬品、紫外線にも強く、ふつうの樹脂が音を上げる場所で力を発揮します。

まず、繊維や紙にしみこませて汚れをはじく薬剤を世に出しました。転機になったのは、その翌年に生まれたフッ素樹脂「アフロンCOP」です。溶かして自由な形に成形できる樹脂で、それまでのフッ素樹脂は加工が難しく、この扱いやすさは世界で初めてのものでした。十年ののちには、色あせしにくい塗料用の樹脂も売り出します。建物の外装をおおう塗料から、フィルムやゴムの部材まで、フッ素の素材は暮らしを裏側で支えています。

半導体の原版——旭硝子が世界で数少ない作り手になった

半導体づくりでは、回路の絵を光で焼き付けるために、光をゆがみなく通すガラスがいります。旭硝子がこの分野に入ったのは1980年代、「ガラス材料の技術で何かできないか」という社内の議論からでした。たどりついたのが、不純物を極限まで減らした合成石英ガラスです。

露光装置の光がより短い波長へ進むほど、高純度のガラスが効いてきます。エキシマレーザーが使われ始めたころ、旭硝子は製法の違いを武器にシェアを伸ばしました。久保岳執行役員は「製法による特徴が出て、この頃にかなりシェアを伸ばしました」と説明します。そして、最先端のEUV露光で使うマスクブランクスという原版で、世界でも数少ない作り手の一つになりました。半導体向けの電子部材は、AGCの利益をいちばん多く生む事業に育っています。

過去最高の2,292億円——経営陣は素直に喜べなかった

2010年、旭硝子の営業利益は過去最高の2,292億円に達しました。ブラウン管から薄型テレビへの置き換えで、液晶用ガラスがよく売れたためです。ところが経営陣は、この数字を素直に喜べませんでした。会社の稼ぎが、ひとつの製品の波に大きく左右される。次の柱がなかなか見えない。好調なときほど、過去の成功が変革の重しになります。

利益が四期続けて縮むなかで社長になった島村琢哉は、「両利きの経営」を掲げました。既存の事業を深めることと、次の事業をさがすことを、同時に進める。「安定的な収益を出せば出すほど、過去の成功体験にとらわれて、変革がしづらい」。島村はそう語り、会社の重心を動かしにかかります。

600億円のデンマーク買収——薬づくりを日米欧に広げた

バイオ医薬品は、生きた細胞に薬のもとをつくらせます。わずかな条件のちがいで品質が変わるため、つくり手には厳格な管理が要ります。旭硝子は、ガラスや化学品の工場できたえた品質管理こそ、この仕事に生かせると考えました。

2016年、まずドイツの受託会社を買収して欧州に入り、続いてデンマークのCMCバイオロジクスを約600億円で傘下に収めます。この会社はコペンハーゲンと米国に工場を持ち、動物細胞を使う製造で欧米の顧客をかかえていました。これで日本・欧州・米国の三極がそろいます。さらに横浜の鶴見には500億円を投じて新しい拠点を建て、細胞治療薬や抗体医薬、mRNAの受託へ手を広げました。台湾の鴻海がiPhoneを組み立てるように、旭硝子は薬をつくって製薬会社に渡す側にまわったのです。

従業員52,896人——ガラス一色から5つの顔に育った

有価証券報告書上場企業が事業年度ごとに提出する、経営状況や財務情報をまとめた法定開示書類。によれば、2025年12月期の連結従業員数は52,896人でした。このうち最も多いのは自動車向けのオートモーティブの15,997人です。板ガラス一色で始まった会社は、建築ガラス、オートモーティブ、電子、化学品、ライフサイエンスという5つの報告セグメントを抱える会社に育ちました。

このほか、セラミックス製品や物流・金融のサービスも手がけています。窓ガラスの国産化を目指した会社は、化学品からバイオ医薬品まで手がける会社に姿を変えました。