飯田亮と戸田壽一が挑んだのは、日本にまだ無かった警備業だった。 警備員が走り回るしかなかった時代に、機械が異常を知らせる仕組みをつくり、業界そのものを変えた。 防犯にとどまらず、防災や医療、保険まで担う「社会システム産業」へと広がった。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.4倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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仕事の名前ごと、つくった——「日本警備保障」という造語
創業を決めたとき、飯田亮は28歳でした。日本にまだ無い商売を始めるのですから、手本にできる同業者もいなければ、その仕事を指す言葉すら世の中にありません。
そこで二人が最初にしたのは、名前をつくることでした。「警備」に「日本」を冠し、「保障」を加えた手づくりの造語が「日本警備保障」です。辞書を引いても出てこない名前から、この会社は始まりました。
窓と玄関の施錠を確かめる——客は帝国ホテルにまで及んだ
会社が最初に警備を引き受けたのは、千代田区麹町の旅行代理店でした。夜ごと契約先を回り、窓と玄関の施錠を確かめる——それが商売のすべてだった時期です。
契約先はやがて、晴海の国際見本市会場、伊勢丹デパート、帝国ホテルへと広がっていきます。本社も神田小川町、次いでクロサワビルへと、創業から2年のあいだに二度移りました。
実績のない会社が——国家行事の警備を任された
選手村の警備契約が結ばれたのは、創業からわずか1年半後のことでした。実績と呼べるものがまだほとんど無い会社が、国家的な行事の警備を引き受けたことになります。
契約の翌年には大阪支社を開設し、東京だけの商売から全国区へ足場を広げました。さらに1965年には、宇津井健主演のテレビドラマ「ザ・ガードマン」の放送が始まり、警備員という仕事が茶の間に知られるきっかけになります。
SPアラームが鳴った夜——銃撃を受けつつ現場を確保した
SPアラームの開発では、電話回線を使って異常信号を送る仕組みが欠かせませんでした。飯田は電電公社(現NTT)に日参し、回線の確保に奔走したと自ら振り返っています。
事件が起きたのは1969年、午前1時20分ごろのことでした。渋谷区千駄ヶ谷の一橋スクール・オブ・ビジネスでSPアラームが作動し、駆けつけた巡回機動隊員・中谷利美は銃撃を受けて負傷しながらも現場を確保、同日午前4時27分、19歳の少年が連続射殺事件の犯人として逮捕されます。同年、この功績により、ミュンヘンで開かれた国際警備連盟総会でゴールドメダルが授与されました。
無事故で2年1ヵ月——大阪万博が技術への信頼を押し上げた
ブランド制定の3年前にあたる1970年、日本警備保障は大阪万博の警備を担いました。建設現場の警備段階から数えて2年1ヵ月あまり、無事故で警備を務め上げた実績が、会社の技術力への信頼を後押しします。
その5年後には世界初のコンピュータセキュリティシステム(CSS)が稼働を始め、機械警備の技術面でも先頭を走るようになりました。ブランドが掲げたのは「人と科学の協力による新しいセキュリティ」。飯田はのちの社名変更も、暮らしと社会を支える産業への転身のあらわれと位置づけましたが、社内では反対の声も上がったといいます。「社会システム産業」という言葉が正式に打ち出されたのは、社名変更からさらに6年後、「社会システム産業元年」の宣言によってでした。
説得に4年——家庭向け参入に社内の大半が反対した
家庭向け市場への進出には、社内のほとんどが反対しました。飯田によれば、説得に4年を要したといいます。その1981年、日本警備保障(現セコム)は韓国安全システム株式会社をサムスングループとの合弁で設立し、家庭への挑戦と同時に海外展開にも踏み出していました。
翌1982年、会社は「安全産業元年」を宣言します。さらに同年には米ウェステックセキュリティ社を買収し、国内の家庭市場開拓と並行して、海外の警備会社を取り込む動きも本格化させていきました。
入り口は薬局だった——警備の緊急対応を医療に持ち込んだ
医療への入り口になったのは、薬局でした。1991年に開設した「セコムファーマシー」が、日本初の本格的な在宅医療サービスの出発点です。警備で培った緊急対応の仕組みを、そのまま医療に持ち込む試みでした。
その3年後には日本初の遠隔画像診断支援サービス「ホスピネット」を始め、やがて医療保険が使える訪問看護ステーションを開設します。保険事業への進出も、訪問看護と同じ年に東洋火災海上保険へ資本参加する形で始まりました。
被害は12件——元社員が合鍵で留守宅に入っていた
逮捕されたのは当時24歳、大阪市中央区在住の元社員でした。機械警備のセンサーが鳴ったという名目で契約先に急行し、あらかじめ預かっていた合鍵を使って住人不在の家に入り込む——それが手口でした。
その後、兵庫県警の追送検で新たな余罪が加わり、被害は合計12件にのぼりました。取り調べに対し「一度盗品が売れて、手元に残らないから大丈夫だと思ってしまった」と供述したと伝えられています。合鍵を預かるという信頼を裏切る行為が、会社全体の評判に影を落としました。
二人で始めた事業が——18の国と地域の警備にまで届いた
契約は国内外あわせて約387万件にのぼり、事業を展開しているのは台湾や韓国、イギリス、アメリカなど18の国と地域にわたります。
その後、大型商業施設の常駐警備や航空保安業務を得意とする株式会社セノンを連結子会社親会社の決算に売上・利益をまとめて計上する子会社。親会社が過半数の議決権を持つ会社などが対象。化しました。飯田亮と戸田壽一が二人で始めた事業は、空港や商業施設の警備まで担う社会システム産業へと広がりました。
