写真館で撮った自分の一枚に心を動かされた若者と、ヨーロッパで光学の未来に惚れ込んだ男。二つの源流がフィルムとカメラで日本を代表し、そして祖業を丸ごと手放した。残った会社を支えるのは、オフィスの複合機だ。
創業から現在へ — ストーリー
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
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投資家目線のワンポイント
稼ぎ頭のオフィス複合機は、紙の書類が減るほど需要が細ります。売上の半分あまりがここに乗るため、印刷・計測・医療の3つの事業がどれだけ伸びたかを合わせて見ないと、複合機の縮みばかりが目に入ってしまいます。
写真館で見た一枚——薬種問屋の跡取りが商いを変えた
コニカの歴史は、一人の若者が写真館で自分を撮ってもらい、その仕上がりに心を動かされたところから始まります。杉浦六三郎、二十五歳。曽祖父が立ち上げた薬種問屋は小西屋六兵衛店といい、六三郎はそこで写真材料の取り扱いを始めました。店を構えたのは東京の麹町で、写真と石版印刷の道具を売る商いです。のちにこの店は小西本店となり、日本で初めてブランドの付いた量産カメラや、国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」を世に送り出しました。写真館で撮ってもらった一枚に始まった商いは、やがて写真の道具そのものを作る側へ移っていったのです。
星空をつくりたかった男——プラネタリウムを直営で始めた
ミノルタを興した田嶋一雄には、生涯を通じた天文への憧れがありました。カメラのレンズで磨いた光学の技術を、夜空を映し出す機械につぎ込みたい。田嶋は発明家の信岡正修と手を組み、国産では初めての光学式プラネタリウムを完成させます。兵庫の遊園地で開かれた科学博に据えられたこの一台は、二十万人を超える来場者を集めました。物語にはもう一つの山場があります。景気の冷え込みでプラネタリウムの閉館が各地で相次いだとき、コニカミノルタは機械を売る側から、みずから運営する側へ回るという前例のない決断をしました。生まれ変わった施設は「満天」と名づけられ、年におよそ三十三万人が訪れます。設計から製造、番組づくり、運営までを一社で手がける会社は、世界でここだけです。複合機のメーカーが星空を届けている理由は、創業者の夢まで一本の線でたどれます。
宇宙飛行士のカメラ——行き着いた先はスマートフォンの画面
アメリカの宇宙飛行士ジョン・グレンが地球を周回したとき、機内で使われたのはミノルタのカメラでした。その後、露出計づくりの精度がNASAの目に留まり、アポロ十一号には月への旅に耐える露出計が積み込まれます。華やかに聞こえる話ですが、この会社の技術はもっと身近なところにもあります。運転免許証の顔写真は、長くこの会社の印刷システムで刷られてきました。スマートフォンやテレビの液晶画面には、光の向きをそろえる部品を守る薄いフィルムが貼られていて、これはこの会社が早くから育ててきた事業です。携帯電話向けには、二十マイクロメートルまで薄くしたものもあります。写真とカメラで鍛えた、光をあつかう力。それが宇宙から手のひらの画面まで、姿を変えて生き続けています。
型番だけで注文が入った——設計思想が違う二社が作った一台
コニカもミノルタも、カメラで鍛えた光学と画像の技術を持ち寄り、それぞれに複写機をつくっていました。コニカが世に出した普通紙のコピー機は、注文が生産能力を上回るほど売れます。ミノルタは倍率を自由に変えられるズーム機能をコピー機に持ち込み、世界的なヒットを飛ばしました。ただ両社ともこの分野では世界の上位に届かず、複写機の事業を一つに束ねる道を選びます。壁になったのは、機械よりも人の側でした。開発の進め方も設計思想も違う二つのチームが、一台の製品を一緒に仕上げなければならない。二つの開発文化を乗り越え、社内が一丸となって仕上げた統合後のカラー複合機は、『統合の真のシンボル』と呼ばれました。ブランド名の「bizhub」には、顧客を商売の中心に置くという意味が込められています。のちのモデルは、型番を告げるだけで注文が入るほどの評判をとりました。
百三十年の商売をやめた——レンズだけは使えるようにした
デジタルカメラの出来ばえは、光を電気信号に変えるセンサーの技術で決まるようになりました。コニカミノルタは、そこで競争力のある製品を間に合わせるのは難しいと判断します。フィルム写真、いわゆる銀塩の市場も、世界的なデジタル化で「驚くほどの速さで縮んでいる」。会社は祖業からすべて手を引くことを決めました。創業から百三十年あまり、長く会社の名前そのものだった商売を、自分から手放したのです。ただ、投げ出したわけではありませんでした。一眼レフカメラの資産はソニーへ譲られ、それまでのレンズを持っている人がそのまま使い続けられるよう取り決められます。カメラの修理や相談の窓口もソニーが引き継ぎ、写真店のプリント機械の保守は別の会社に託されました。あわせて、従業員三万三千人のうち三千七百人を減らす計画も示されています。
遺伝子解析に1200億円——過去いちばんの赤字を生んだ
祖業を手放した会社が次の柱に選んだのは、遺伝子やたんぱく質から一人ひとりの体質を読み解く医療でした。アメリカの遺伝子解析会社と創薬支援会社を、二社あわせておよそ1200億円で買収します。ところが描いた成長には届かず、買収でふくらんだ「のれん企業買収の際、買収先の純資産額を上回って支払った金額を計上する無形の資産項目。」という帳簿上の価値を、大きく取り崩すことになりました。計上した減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。はおよそ1166億円。この年の決算は、最終赤字も過去いちばんの大きさになりました。大幸利充社長は「ベストな条件が3つ4つ重ならないといけない計画ではなく、少々の変動があっても耐えられる計画を作って、実行していかなければならない。世の中そんなに甘くない」と振り返っています。会社はその後、大規模な人員削減を含む構造改革に踏み切りました。
「このボタンは要らない」——医師と作り直した超音波診断
この会社と医療画像の縁は古く、前身企業はレントゲンがX線を見つけたわずか一年後に、その装置を輸入して試しています。写真フィルムで培った技術は、やがて病院の画像診断へと引き継がれました。近い時期に挑んだのが、体を傷つけずに中を見る超音波の診断装置です。すでに大手がひしめく市場へ最後発で入り、整形外科の分野ではシェアがまったくないところからのスタートでした。開発陣は医師のもとへ何度も通い、試作機を見せては「このボタンは要らない」「ここが使いにくい」という声を持ち帰ります。現場の言葉で削り、整え直した装置は、二年ほどで整形外科向けの先頭に立ちました。画面に映る白と黒から異常を読み取る。その仕事を支える道具を、使う人と一緒につくった事業です。
