焼け跡に立ち上げた、二十数人の小さな工場。 炊飯器の失敗から巨額減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。、ソニーショックまで——失敗のたびに、この会社は稼ぐ顔を変えてきた。 それが「世界のソニー」の正体だ。

01

創業から現在へ — ストーリー

1945
焼け跡に生まれた東京通信工業
井深大が東京の焼け跡で「東京通信研究所」を立ち上げ、ラジオ修理で食いつないだ。翌年、盛田昭夫らと東京通信工業を設立した。
1958
社名を「ソニー」に変更
東京通信工業からソニー株式会社に社名を変更した。米国法人を設立してニューヨーク証券取引所に上場し、トリニトロンテレビや「ウォークマン」を世に送り出した。
1982
世界初のCDプレーヤーを発売
世界初のCDプレーヤー「CDP-101」を発売した。その後、米コロンビア・ピクチャーズを買収し、家庭用ゲーム機プレイステーションも発売した。
2003
「ソニーショック」で株価が急落
決算発表を機にソニー株が2日連続でストップ安株価が1日に値下がりできる下限に達すること。となり、日経平均もバブル崩壊後の最安値を更新した。市場は「ソニーショック」と呼んだ。
2012
平井改革「One Sony」で構造転換
社長に就任した平井一夫は「One Sony2012年に社長に就任した平井一夫氏が掲げた経営改革のスローガン。縦割りだった事業・組織の垣根を取り払い、グループの総合力を一つに結集して構造改革を進める方針を指す。」を掲げ、8年連続赤字だったテレビ事業の立て直しと約1万人の人員削減に踏み込んだ。
2021
ソニーグループ株式会社が発足
社名をソニーグループ株式会社に改め、6つの事業会社に再編した。2026年3月期の売上高は12兆4,796億円、営業利益は1兆4,475億円だった。
TEN YEARS

10年で、売上は約1.6倍

15兆円
7.5兆円
2016 · · · · · · · · 2025
売上 純利益(会社に残った利益) 赤字だった年
売上
10年前
76,032億円
↓
現在
124,796億円
約1.6倍に増加
純利益
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
10年前
733億円
↓
現在
-3,269億円
直近は赤字
従業員
10年前
128,400人
↓
現在
94,900人
約26%減少
02

事業の構造 — 何で稼いでいるか

柱 01
ゲーム
プレイステーションのハードとソフトで稼ぐ、グループ最大の事業です。
柱 02
音楽
レコード会社と音楽出版が、保有楽曲の権利で継続的に稼ぐ事業です。
柱 03
映画
米ソニー・ピクチャーズが担う、映画・テレビ番組の制作配給です。
柱 04
エレキ・半導体
テレビ・カメラ等の家電と、カメラ用イメージセンサー半導体を担います。
03

投資指標

株価
——
東証プライム
前日比
——
——
配当利回り
——
年間予想
PER
——
株価収益率
PBR
——
株価純資産倍率
時価総額
——
円換算
52週高値
——
過去1年
52週安値
——
過去1年

取得中…

自由闊達な理想工場——書いた本人が忘れていた設立趣意書

終戦の翌年、井深大は東京通信工業の設立にあたり、自ら筆を執って設立趣意書を書きました。会社創立の目的の筆頭は「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」。ところが井深は設立準備のゴタゴタでその存在をすっかり忘れ、後に取締役から見せられて「なかなか良いことを書いたんだなあ」と自ら感心した——という顛末が公式社史に残っています。

それでも設立式での井深の挨拶は、趣意書と寸分違いませんでした。「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある」。資本金19万円、総勢二十数名の出発でした。この趣意書は今もソニーグループの原点として公式サイトに全文が掲げられています。

電気炊飯器——社史に「失敗作第1号」と記された

東京通信研究所(東通工の前身)が終戦直後に手がけた商品のひとつが、電気炊飯器でした。木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもので、水加減や米の種類によって芯が残ったりお粥になったりと、うまく炊けることのほうがまれでした。

公式社史はこれを「初めての失敗作第1号となった記念すべき商品」と記しています。会社はラジオの修理・改造と真空管電圧計の官庁納入で食いつなぎ、1945年の暮れには仕事が軌道に乗り始めました。最初の失敗は、隠されるどころか「記念すべき商品」として社史に堂々と記録されています。

「もの言う紙」は売れなかった——テープレコーダーの教訓

1950年に発売した日本初のテープレコーダーG型は、16万円・重さ35kg。日本初の画期的な商品だから必ず売れる、という井深たちの読みは完全に外れました。デモを見た客は面白がって遊んでも、誰も買おうとは言いません。盛田昭夫は宴会場まで機械を持ち込んで実演させられた挙句、1台も売れませんでした。

盛田たちは売り方を根本から考え直し、学校の視聴覚教育に市場を見出します。テープレコーダーの使い方そのものを教える普及活動を全国で展開し、やがて全国の学校の必需品になっていきました。「良いものさえ作れば売れる」は通用しません。市場は自分で作るもの——この失敗はそんな教訓を残しました。

特許料2万5,000ドル——町工場が挑んだトランジスタ

1952年に渡米した井深は、米WE社がトランジスタの製造特許を公開すると聞きつけました。帰国後に製造許可を求めた先の通産省の返事は「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」。日本を代表する大企業ですら米国からの全面技術供与に頼るなか、町工場に毛の生えた程度の東通工が特許権だけを買い取るのは無謀だ、という見立てでした。

それでも東通工は特許使用料2万5,000ドル(約900万円)の契約を進めます。WE社の技術者に「補聴器を作れ」と勧められたのを退け、井深は誰もが買える大衆商品——ラジオを狙うと宣言しました。1955年、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」が生まれています。

芸大生にかみつかれた井深——大賀典雄という拾いもの

1950年、増資の縁で東通工を訪ねてきた東京芸術大学の学生・大賀典雄は、テープレコーダーG型の音質に細かい注文を付け、改良すべき点を仕様書にまとめて提出までしました。専門用語でまくし立ててあしらうつもりだった井深は、逆にかみつかれ、「テープレコーダーの知識は玄人以上の本物だ」とこの学生を気に入ってしまいます。

大賀は誰が任命したわけでもない「無給の監督官」として東通工に出入りするようになり、3年後に嘱託契約、1959年に正式入社しました。その後、ソニーの代表取締役社長に就いています。うるさい客を追い返さず、社長にまでした会社なのです。

映画事業の買収——2,652億円の減損に沈んだ賭け

1989年、ソニーは米コロンビア・ピクチャーズを48億ドルで買収しました。バブル期の日本企業による米国買収ラッシュのさなか、「日本企業がアメリカの魂を買いあさっている」と批判され、社内にも「素人のソニーが映画ビジネスで儲けられるはずがない」という反対の声があったと、買収実務を担った元経営戦略本部長は回想しています。

映画事業は買収後に迷走し、1995年には営業権(のれん企業買収の際、買収先の純資産額を上回って支払った金額を計上する無形の資産項目。)の減損損失2,652億円を計上しました。それでもソニーは映画を手放しませんでした。ソニー・ピクチャーズは今もハリウッド大手の一角を占め、映画はグループの収益の柱のひとつであり続けています。

ゲームが稼ぎET&Sが雇う——33,100人にのぼる

有価証券報告書上場企業が事業年度ごとに提出する、経営状況や財務情報をまとめた法定開示書類。によれば、2026年3月期末の従業員は、テレビやカメラを担うエンタテインメント・テクノロジー&サービス(ET&S)が33,100人で全セグメント中最多でした。稼ぎ頭とされるゲーム&ネットワークサービス(G&NS)は12,300人にとどまり、ET&Sの半分にも届きません。

半導体のイメージセンサーを担うイメージング&センシング・ソリューションも大所帯で、電機・半導体系の部門を合わせれば人員の過半を占めます。売上や利益をけん引する「稼ぎ頭」と、実際に大勢を雇う「主力」は、必ずしも同じ顔をしていません。

プレイステーション3——売るほど赤字を生んだ「逆ざや」

プレイステーション3は、製造コストが販売価格を上回る「逆ざや」で売り出されました。前期は87億円の黒字だったゲーム事業が、この一台で2,323億円の営業赤字に転落します。

その渦中で社長に就任した平井一夫は「ソニーが変わるのは今しかない」と語り、「One Sony」を掲げて構造改革に踏み込みました。ゲーム事業はネットワークサービスの拡大に支えられて息を吹き返し、グループ最大の売上を持つ柱まで伸びました。売るほど赤字だった事業が、最大の稼ぎ頭に化けたのです。