世界中のほぼすべての半導体は、この会社の装置を通らずには生まれない。 テレビ局TBSが出資した小さな輸入商社は、60年をかけて世界の半導体を支える装置メーカーになった。 2015年には、世界8カ国で審査された経営統合話が土壇場で白紙に戻った過去も持つ。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上はほぼ3倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
半導体製造装置の業績は、半導体メーカーの設備投資サイクルに大きく左右されます。2009年には受注が急減し赤字転落の危機に直面した過去があり、好況・不況の波を映す先行指標として業界全体の受注動向を見る視点が参考になりそうです。
半導体製造装置業界は特性上、顧客が少数の大手半導体メーカーに集中する傾向があります。特定の顧客の投資計画が変わると業績が動きやすい構造である点も、あわせて見ておきたい視点です。
TBSの出資から始まった、半導体への道
1963年、久保徳雄と小髙敏夫は東京都港区赤坂に「東京エレクトロン研究所」を設立しました。資本金はわずか500万円です。出資したのは放送局のTBSという意外な相手でした。小髙が前職の商社勤務時代にTBSの担当をしていた縁がきっかけだったと伝えられています。
会社は当初、拡散炉やICテスタといった海外製の電子部品を輸入して売る専門商社としてスタートしました。創業当初はTBSのビルに間借りしており、1994年からは再びTBSビル内に本社を構えています。2025年度末時点でも、TBSは東京エレクトロン株の3.2%を持つ大株主です。60年以上たった今も、この関係は続いています。
売上の6割を切り捨てた1974年の決断
1970年代前半の東京エレクトロンは、電卓やカーステレオといった消費財の輸出入が主力事業でした。この事業だけで売上の6割を占めていたといいます。
1974年、社長に就任した久保徳雄は、この事業からの撤退を決断しました。半導体製造装置一本に経営資源を集中させるためです。1978年、社名は「東京エレクトロン株式会社」に改められました。売上の6割を占める事業を自ら手放したこの決断が、のちの装置メーカーとしての成長の土台になっています。
「世界ランキング1位」を守った1990年代
1980年、東京エレクトロンは東京証券取引所市場第二部に上場しました。海外メーカーとの合弁や技術提携を重ね、イオン注入装置の国産化などを進めていきます。1984年には東証一部に指定替えとなりました。
1989年、東京エレクトロンは半導体製造装置メーカーの売上高で世界1位を獲得したと発表しています。1991年まで3年連続でこの首位を守りました。輸入商社として始まった会社が、10年余りで世界トップの装置メーカーに変わっていました。
「純損失380億円」からの立ち直り
2008年秋に始まった世界的な金融危機は、半導体業界の設備投資を急停止させました。東京エレクトロンは2010年3月期について、純損失380億円を見込むと説明しています。半導体製造装置市場は前年比40〜50%落ち込むという想定でした。
外注費や残業代の削減など、固定費の見直しを急ぎます。危機からわずか4年後の2013年、東京エレクトロンは米国のApplied Materialsとの経営統合を提案する立場にまで立ち直っていました。
経営統合が「白紙」に——Applied Materials合併破談
2013年の秋、東京エレクトロンは米国の半導体製造装置メーカーApplied Materialsとの経営統合契約を発表しました。統合後の新会社は「グローバル・イノベーター」と呼ばれ、東哲郎会長兼社長が会長に、Applied MaterialsのCEOが最高経営責任者に就く計画でした。世界8カ国で審査が申請され、対象は約40の製品市場に及びました。
シンガポールとドイツでは認可が下りましたが、米国・日本・韓国では審査が長引きます。2015年の春、東京エレクトロンはついに統合契約の解約を発表しました。東哲郎は「製品構成が重ならないので、(独占禁止法企業同士の不当な競争制限やカルテル、行き過ぎた企業結合を規制する法律。の)対象にはならないと考えていた。しかし、開発中の製品についても対象になるという米司法当局の考え方と、折り合いがつかなかった」と説明しています。同じ年のうちに新ビジョンとロゴを一新し、「新生TEL」として仕切り直す道を選びました。
太陽光パネル、参入から撤退までの5年
2009年、東京エレクトロンは太陽光パネル製造装置事業に参入しました。2012年にはOerlikon Solar社を買収し、事業の拡大を図ります。
ですが、2014年、東京エレクトロンは太陽光パネル事業からの撤退を決めています。参入からわずか5年での幕引きでした。
大阪支社の新入社員が、社長になるまで
河合利樹は1986年、新入社員として東京エレクトロンに入社し、大阪支社に配属されました。その後、ロンドンやドイツへの赴任を経験し、TPS事業企画部長や執行役員を歴任しています。
2015年に代表取締役副社長兼COOとなり、2016年、代表取締役社長兼CEOに就任しました。一人の新入社員が、30年かけて社長までたどり着いた道のりです。
世界一位から世界四位へ、それでも譲らない専業分野
1989年に世界首位に立った東京エレクトロンですが、半導体製造装置業界の競争は年々激しくなっていきました。ある調査では2021年時点で世界3位、直近の発表では世界4位という位置づけになっています。
それでも、塗布・現像装置の分野では世界シェア1位を守り続けています。Wikipediaによれば2021年時点で全体の9割、最先端のEUV露光工程向けではほぼ100%のシェアを持つと伝えられています。総合順位は下がっても、得意分野は譲らない——そんな戦い方をしてきた会社です。
「ファウンダー」の称号と、創業者の死
小髙敏夫は慶應義塾大学工学部を卒業後、商社勤務を経て、1963年、久保徳雄とともに東京エレクトロン研究所を創業しました。1980年に代表取締役社長、1994年に取締役会長を務め、1996年に退任しています。
1998年、創業への功績を称えて「ファウンダー」の称号が贈られました。2023年、小髙は87歳で亡くなっています。会社が60周年を迎えたのと同じ年のことでした。
