肥料をつくる小さな会社として生まれた信越化学工業は、世界有数の企業へと成長した。 転機は、米国に一番遅れて参入した子会社シンテックの大逆転劇だった。 自己資本比率総資産のうち、返済不要の自己資本が占める割合を示す指標。は高い水準を保ち、借金にほとんど頼らない経営が、この会社の静かな強さになっている。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上はほぼ2倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
「信濃の水」と「越後の石灰石」——肥料会社が立ち上がる
信越化学工業のルーツは、肥料づくりでした。長野県の水力発電による電力と、新潟県で採れる石灰石を組み合わせ、化学肥料の石灰窒素をつくる信越窒素肥料株式会社として、1926年に発足します。
社名の「信越」は、長野の旧国名「信濃」と新潟の旧国名「越後」に由来します。地元の自然の恵みを生かすという発想が、その後シリコーンや塩ビ、半導体シリコンへと事業を広げていく信越化学の出発点になりました。
肥料屋を脱却——日本初のシリコーン事業を始める
石灰窒素の肥料メーカーだった信越化学は、1953年、国内初となるシリコーン事業へ乗り出しました。
この年、信越化学はデミング賞も受賞しています。以後、事業の幅を次々に広げ、「肥料屋」から総合化学メーカーへの転換が本格的に進んでいきました。
「フル生産・全量販売」——世界一への道を駆け上がる
1973年に設立したシンテックは、翌年に操業を開始した時点で、米国の塩ビメーカー21社中13位という最後発の規模でした。
その後、金川千尋が社長に就任し、掲げた「フル生産・全量販売」という方針のもと、シンテックは増設を重ね、2001年には生産能力で世界最大の塩ビメーカーになりました。
ニカラグアの塩ビ工場接収——カントリーリスクを痛感する
信越化学は1967年、中米ニカラグアに塩ビ会社を設立しました。工場は耐震設計がしっかりしており、その5年後に起きた大地震のときも、電気が復旧するとすぐに再稼働できたといいます。
ですが1979年、当時の政権が革命で倒れると状況が一変します。新政権が工場を接収し、信越化学はニカラグアでの事業を手放しました。金川千尋はのちに、この経験からカントリーリスクの怖さを痛感し、カントリーリスクの高い国には投資すべきではないという考えを持つようになったと語っています。
反骨心で見せつけた底力——成長神話は終わったと言われて
信越化学は2001年ごろから数年間、利益の伸び率が2〜3%にとどまりました。金川千尋は、ある投資家から「信越化学はもう2ケタの成長はできないんですか」と言われ、あるアナリストからも成長神話が終わったのではないかと言われたと語っています。
金川はこの指摘に強く反発し、自ら具体的な指示を出したといいます。その結果は2004年度の決算に表れ、20%の増益を達成しました。マンネリを指摘されたことへの反骨心が、業績を押し上げた出来事でした。
残った39人の従業員——ハリケーンが教えてくれた忠誠心
2005年、米国南部を大型ハリケーン「カトリーナ」が襲い、その直後に発生した「リタ」がテキサス州のシンテック工場に迫りました。避難命令が出るなかでも、米国人従業員39人が工場に残って設備を守ったといいます。
金川千尋はこの出来事に感激し、自ら感謝状を書いたと語っています。信越化学という会社を、従業員が自分たちのものだと感じてくれた出来事だったと、金川は振り返っています。
二つの事業が支え合った——業績の荒波を乗り越える
信越化学の業績は、値動きの異なる二つの主力事業に支えられてきました。
ところがある局面で、双方の需要が同時に落ち込み、信越化学の連結純利益はわずか2年ほどで半分以下まで減っています。それでも会社全体が大きく揺らぐことはなく、事業構成の違いが業績の波を乗り越える支えになってきました。
