総合スーパーの「イオン」やモール「イオンモール」を全国に構える、国内屈指の流通グループ、イオン。 始まりは江戸時代、四日市の小さな行商だった。 合併に合併を重ね、経営が行き詰まった同業を次々に引き受けながら、国内最大級の流通グループへと姿を変えた。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.3倍
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
「大黒柱に車をつけよ」——迷わず移転した呉服店の家訓
江戸時代の1758年、創業者の初代岡田惣左衛門は三重県四日市で、天秤棒をかついだ行商から呉服・日用品の商いを始めました。まだ小さな一軒の店にすぎませんでした。
1887年、店をより人通りの多い繁華街へ移すという決断がありました。ここから生まれたのが、「大黒柱に車をつけよ」という家訓です。居心地の良さより、成長できる場所を選ぶという考え方でした。この発想は、200年以上あとの合併・再編の連続にもそのまま通じています。
商機に変えた——「下げにもうけよ、上げでもうけるな」
1920年、株価が暴落する戦後恐慌が日本を襲いました。多くの商店が売上の落ち込みに立ちすくむ中、五代目・岡田惣右衛門は逆の手を打ちます。
値下がりした商品を並べる「暴落大売出し」を実施したのです。ここから、「下げにもうけよ、上げでもうけるな」という家訓が生まれました。好況で浮かれず、不況でこそ商機をつかむという発想は、のちの世代の経営判断にも受け継がれていきます。
「焦土に開く」——学生社長が掲げた戦後の再出発
太平洋戦争が終わり、四日市の街は焼け野原になっていました。学徒出陣で陸軍に入隊していた岡田卓也は復員し、すぐに大学へ復学します。
まだ学生の身のまま、卓也は七代目・株式会社岡田屋の社長に就任しました。その翌月、「焦土に開く」という大売出しで営業を再開しています。小売業を「平和の象徴」だと捉えたこの考え方は、のちのジャスコ・イオンの経営理念にも通じるものでした。
均等出資という選択——一社が飲み込まない道を選んだ
戦後の岡田屋は、一地方の呉服店にすぎませんでした。全国規模の小売業と競うには、単独の成長では限界があります。
岡田屋はフタギ、シロとの均等出資でジャスコ株式会社を設立します。社名の「ジャスコ」は「Japan United Stores Company」の頭文字に由来し、一社が他社を吸収するのではなく、対等な出資で手を組む道を選んだ結果でした。
米タルボット買収——絶頂から一転、巨額損失で撤退した
イオンは米国の婦人服チェーン、タルボットを買収しました。経営支援を続けながら、長年にわたってイオングループの米国事業の中核を担いました。
ですが、その後タルボットの業績は悪化していきます。イオンは7期ぶりとなる最終赤字という誤算に直面しました。タルボットの巨額損失が最大の要因だったと報じられています。2010年、イオンはタルボット株を売却し、20年続いた資本関係に区切りをつけました。
経営破綻したマイカル——同業を丸ごと引き受けた
大手スーパーのマイカルは、バブル期の大型出店と財務の乱れが重なり、約1兆5,482億円の負債を抱えて経営破綻しました。戦後の大型倒産で4番目の規模とされています。
イオンはここで支援に乗り出し、マイカルをグループへ迎え入れました。更生手続きは、当初目標より7年早い2006年に終結しています。同業の破綻を、ライバルだったイオンが引き受ける形になった出来事です。
4,477万個の弁当——産地を偽った米が3年流通
イオンと契約する食品メーカーに米を納めていた業者から、3年にわたり中国産・米国産の米を国産だと偽って納められていたことが発覚しました。
対象となった弁当・おにぎりは4,477万個にのぼります。イオンはこの業者を相手に約2億2,400万円の損害賠償を求めて訴えを起こし、和解に至りました。業者はその後解散しています。仕入れ先の管理という、目に見えにくいところで信頼が揺らいだ出来事でした。
上場後最大の赤字——トップバリュで立て直した4年
新型コロナウイルスによる休業や客数減で、イオンは上場後最大となる710億円の赤字を計上しました。
そこから、値ごろ感のあるプライベートブランド「トップバリュ」の拡販や、在庫・物流の効率化を進めます。地道な4年の立て直しが、連結営業収益10兆円という節目につながりました。
