ミカン箱の上で「30年後の我が社を見よ」と叫んだ男が、40年後には世界のAI企業を買い集めている。賭けに勝ち、賭けに負け、それでもまた賭ける会社だ。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約12%減少
(会社に残った利益。現金の増減とは異なります)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のワンポイント
「ソフトバンク(9434)」と「ソフトバンクグループ(9984)」は別の上場企業。同じ名前でも中身がまったく違うので、どちらを見ているか確認しておきたい。
9434は通信を本業とする会社、9984はアームとビジョンファンドの含み損益で業績が大きく振れる投資会社。値動きの性格が別物である点が見どころ。
「僕ならコンピュータをやる」——16歳が受けた助言
孫正義の原点は、日本マクドナルド創業者・藤田田の著書『ユダヤの商法』との出会いにある。高校生だった孫は久留米から毎日のように藤田の秘書へ電話をかけ続け、ついに面会にこぎつけた。そこで受けた助言はこうだった——「僕が君の年齢だったら食品ビジネスはやらない。コンピュータビジネスをやる」。この一言が、孫の進路を決めた。
16歳で高校を中退して渡米し、カリフォルニア大学バークレー校へ進む。在学中に音声機能付きの翻訳機を試作してシャープへ持ち込み、約1億円で買い取られた。この資金を元手に、帰国した孫は日本ソフトバンクを設立している。
「30年後の我が社を見よ」——1週間で2人とも辞めた
創業まもない朝礼で、孫はミカン箱の上に立ってこう叫んだ。「30年後の我が社の姿を見よ」。売上を豆腐屋のように一丁、二丁ではなく一兆、二兆と数える会社になる——聞いていたのはアルバイト2人だけだった。そして1週間後、2人とも辞めていった。「この人おかしい、気が狂ってる」というのが理由だったと、孫自身がのちに語っている。
最初の事業はパソコン用パッケージソフトの流通だった。当時の日本には、ソフトをメーカーから店へ届ける仕組みがまだ整っていない。孫はその空白を埋めにいった。
病床での決意——余命5年と告げられた
1983年、会社が破竹の勢いで伸びていたさなかに、25歳の孫は慢性肝炎と診断される。医師から告げられた余命は「これから5年生きられるかどうかもわからない」というものだった。急成長する会社を人に預け、孫は治療に専念する道を選ぶ。病床では大量の本を読み、事業と人生を考え続けたという。この闘病が、後の大胆な投資行動の原点になったと孫は語っている。
無人島の宝探し——社員5、6人のヤフーに賭けた
宝探しで無人島に行くとき、いちばん大切なのは食べ物でも鉄砲でもない——地図とコンパスだ。孫はそう考え、業界の情報が集まる場所を先に押さえにいった。そうして見つけた宝が、まだ社員5、6人だった米ヤフーである。孫は100億円を投じて筆頭株主になり、あわせてヤフー㈱を立ち上げた。
その後のネットバブル崩壊で、孫の資産は一気に吹き飛ぶ。それでもヤフー株だけは売らなかった。この判断が、後になって大きな含み益として返ってくる。
「無謀」——買収の2年後、iPhoneが救った
2006年、赤字続きのボーダフォン日本法人を1兆7,500億円で子会社化する決断をする。当時は「借金過多で無謀」という批判が相次いだ。しかし孫には、モバイルインターネットの時代が来るという確信があった。その2年後、アップルと組んで日本で初めてiPhoneが売り出され、流れは一気に変わる。通信事業はグループの安定収益の柱となり、「無謀な賭け」は数年で報われた。
45分の会談で450億ドル——ビジョンファンドは躓いた
サウジアラビアの実力者との会談は、わずか45分だった。その席で孫は450億ドルの出資を取り付けたと伝えられている。こうして10兆円規模のビジョンファンドが動き出し、WeWork、DiDi、Grab、DoorDashなど世界中のユニコーンへ次々と資金を注いだ。
しかしWeWorkの上場失敗と、コロナ禍による投資先の業績悪化で、数兆円規模の損失を計上する。「孫正義の誤算」として世界中のメディアに取り上げられた。
3.3兆円の買い物——誰も読めなかった役どころへ
孫が3.3兆円を投じて子会社にした英アーム社が、米ナスダックに上場した。スマートフォン向けを中心に半導体設計のIPを世界へ供給する会社で、AIの広がりとともに需要は一段と増えている。買ったときには誰も読めなかった役どころへ、この会社は移っていった。
孫の視線はさらに先にある。人間を超える知能がつくる経済圏が2040年に立ち上がると語り、その規模を世界のGDPの2割と見積もっている。
