「お、ねだん以上。」のニトリは、札幌の家具店1軒から始まった。 似鳥昭雄が作ったのは、仕入れから製造・物流までを自分たちで担う製造物流小売業という仕組みだ。 長く続いた増収増益が止まったいま、家電とホームセンターに次の成長先を探している。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.8倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のポイント
ニトリの強みは、海外で作った商品を円建てで売る仕組みにあります。円高が進むほど有利になる一方、円安局面では仕入れコストが上がり、利益を圧迫する要因になります。為替の動きが業績にどう表れるかは、見ておきたい視点です。
増収増益の記録が止まって以降、ニトリは創業者みずから陣頭に立ち、アジアを新しい販売市場として開拓しています。家具で培った強みが、ホームセンターなど異なる業態にもそのまま生かせるかは、これからの見どころです。
家具が3分の1の値段だった、アメリカでの衝撃
似鳥昭雄が似鳥家具店を開いたのは1967年、23歳のときでした。開業直後に融資が止まり、資金繰りに苦しむ日々が続いたといいます。
転機になったのは1972年の渡米視察でした。アメリカの家具店に並ぶ商品が、日本の3分の1の値段だったのです。この価格差に衝撃を受けた似鳥は、日本の暮らしをアメリカ並みに豊かにすることを自分の目標に据えました。
安く売るには、卸や問屋に頼るだけでは限界があります。原材料の調達から製造、物流、販売までを自分たちで手がけるしかない。この考えが、のちの「製造物流小売業」という仕組みの出発点になりました。
「ニトリには売るな」——卸売業界の圧力から生まれた仕入れルート
似鳥は開業当初、卸問屋を通さず産地に直接足を運んで家具を仕入れる方法を試みました。既存の流通の仕組みとは違うやり方に、卸売業界は反発します。
「ニトリには売るな」という圧力が道内の家具メーカーにかけられたと、似鳥は振り返っています。仕入れ先を求めて、似鳥は青森、関東、新潟、浜松、和歌山、広島・府中と、次々に産地を移していきました。それでも圧力は追いかけてきて、最後は九州・大川の産地にまで及んだといいます。
「もう終わりか」と思っていたところに起きたのが、1985年のプラザ合意でした。円高が進み、海外で作った商品を安く仕入れて日本で売るというニトリのやり方が、一気に有利な状況に変わったのです。
函館店、目標の2倍を売った実績
1982年、ニトリは函館に進出しました。地元の業界紙は「ニトリ家具の許容面積は大きすぎる」と、既存の家具店との摩擦を報じています。
ですが、ふたを開けてみると函館店の売り上げは、当時の標準店の倍以上にあたる年商12億円に達しました。目標としていた6億円を大きく超える結果です。
この成功で、担保不足に苦しんでいたニトリの資金繰りは好転しました。特定の地域に集中して出店する「ドミナント方式」の効果を確かめたニトリは、そのまま北海道全域へと店舗網を広げていきます。
北海道拓殖銀行破綻、50億円の借り換えで凌いだ資金繰り
1997年、ニトリのメインバンクだった北海道拓殖銀行が経営破綻しました。保証人として関わっていた山一証券も、同じ年のうちに自主廃業に追い込まれています。
北海道拓殖銀行と山一証券を経由して調達していた50億円の社債は、行き場を失いかけました。ニトリはこの社債を住友信託銀行に借り換えてもらい、連鎖倒産を免れています。
北海道経済そのものが拓銀破綻で長い停滞に入るなか、ニトリはその後も出店を止めず、全国チェーンへの歩みを続けました。
「非常識」と言われた、売上100億円での工場建設
家具チェーンが自前の工場を持つのは、当時としては珍しい決断でした。似鳥が動いたのは、売上高がまだ100億円ほどだった時期です。
インドネシア、続いてベトナムで、完全子会社の生産拠点を稼働させました。当初は合弁での運営を試みましたが、労務管理や意思決定の遅れに苦労し、最終的には自社による直接管理に切り替えています。
証券アナリストは、この規模で工場を持つという判断を先回りの決断として評価したと伝えられています。海外生産と自社物流をあわせ持つ体制は、ここで骨格ができあがりました。
島忠を巡る争奪戦、1株5500円が決めた勝敗
2020年、ホームセンター中堅の島忠は、いったんDCMホールディングスとの経営統合に合意していました。そこへニトリが割って入ります。
DCMが示した1株4200円に対し、ニトリは1株5500円を提示しました。雇用維持の期間もDCMの3年を上回る5年で合意し、島忠の特別委員会はニトリ案を支持します。
ですが統合はすんなりとは進みませんでした。島忠ブランドを一度は廃止して改装したものの、客足は思うように伸びず、減損保有する工場・設備や、買収でついた「のれん」などの資産価値が下がったとき、目減り分を損失として計上する会計処理。や赤字が続いています。その後、似鳥昭雄は島忠の会長を兼ね、自ら再建の陣頭に立つことになりました。
「人生で初めての失敗」——為替判断のミス
2022年秋の決算会見で、似鳥昭雄は自らの為替判断について、めずらしく率直に語りました。
いつもは2年から2年半先まで見越して為替予約をしていたのに、この年だけは金融関係者の声に影響されて、半年から1年単位の短い予約に切り替えてしまったといいます。結果は円安方向に大きく動き、コスト増につながりました。
「僕は最大の間違いだったかなと。もう二度とそういう間違いはしないようにしよう」と似鳥は振り返っています。長く続けてきたやり方を、目先の情報で崩してしまったことを認めた発言でした。
「アメリカはコーディネートの横綱」——それでも退いた9年
ニトリは2013年、「Aki-Home」の名前でアメリカに初出店しました。似鳥は当時から「アメリカはコーディネートの横綱だ」と語り、自分たちを控えめに位置づけていたといいます。
店舗数は最大でも5店にとどまりました。関税の引き上げでベトナムや中国で作った商品を運ぶコストが跳ね上がり、ウォルマートやアマゾンなど巨大企業がひしめく市場で、黒字化のめどは立たなくなっていきます。
「僕もアメリカに進出したのが失敗したなと思った」。似鳥はそう認め、米国の全店舗を閉鎖しました。空いた資金と人材は、その後の東南アジアや台湾・中国への出店に振り向けられています。
79歳の創業者が見せた、社長への復帰
1988年から続いていた増収増益の記録は、円安の進行で仕組みが逆回転し、ついに止まりました。国内の出店余地も狭まっていました。
同じころ、似鳥昭雄は10年ぶりに事業会社ニトリの社長へ復帰しました。会長との兼務です。これまで製造拠点として使ってきたアジアを、今度は販売市場として開拓する方針を掲げています。
掲げる目標は2032年に3,000店舗・売上高3兆円。シンガポールに旗艦店を出すなど、アジアでの店舗網づくりを本格化させました。
