オレゴン州の大学を1学期でやめた青年が、そのままキャンパスに居座った。 中退したあとも18か月、興味のある講義だけを聴き続けた。そこにあったのが、就職に何ひとつ役に立たないカリグラフィー——文字の美しさの講義だった。 10年後、その講義がMacintoshに書体を組み込むことになる。 これは、生まれつきの天才の話ではない。役に立たない寄り道を捨てなかった男が、最後は売り物を4つまで捨てるまでの記録である。
- 生後すぐ、大学を出ていない夫婦のもとへ養子に出された少年が育った家庭と土地
- 神童ではなく「浮きこぼれ」だった学校時代、そして中退・追放という二度の挫折
- ガレージからの創業、追放と復帰を経て、iMacからiPhoneまでを生み出した黄金期、そして56歳での死
選ばれた子、というものがたり
1955年、サンフランシスコ。生みの母は未婚だった。息子を養子に出すと決めたとき、彼女が出した条件はひとつだけだった——育ての親は、大学を出ている人であること。当初決まりかけていた夫婦は、生まれてきたのが男の子だったために土壇場で降りた。代わりに引き取り手として名乗り出たのが、機械工のポール・ジョブズと妻のクララだった。ポールは高校までしか出ておらず、クララは大学を卒業していない。生みの母は最終書類への署名を渋ったが、夫婦が「必ず大学へ行かせる」と約束したことで、縁組はようやく成立した。手放す側が最後まで譲らなかったのは、金でも家柄でもなく、学校へ行かせてくれるかどうかだった。17年後、ジョブズはその大学を、1学期でやめることになる。
ポールは趣味で車の修理をしており、これがのちに幼いジョブズへの手ほどきの手段になる。自分が養子であることを、ジョブズは物心ついたときから知っていた。6歳のとき近所の女の子に「本当の両親はあなたを望まなかったの」と聞かれ、泣いて家に帰ったことがある。両親はこう答えた。「私たちは特別にあなたを選んだのよ」。
養父のポールは自宅に作業台を用意し、幼いジョブズに工具を握らせた。ジョブズは後年、父から学んだことをこう振り返っている。「物の作り方、分解の仕方、組み立て直し方を教えてくれた」。養子に出された家庭がたまたまシリコンバレーの真ん中にあったのは偶然だが、幼い頃から工具を触らせる父親だったことは、偶然とは言い切れない。
一家がサンフランシスコから移り住んだのは、のちにシリコンバレーと呼ばれる地域、マウンテンビューだった。当時のこの土地について、ジョブズは「本当に楽園のようだった」と語り、広がっていたのはアプリコットとプルーンの果樹園だったと振り返っている。
近所に住んでいたのは、ヒューレット・パッカードのエンジニア、ラリー・ラングだった。彼が持っていた電子工作キット「ヒースキット」に触れたことが、ジョブズにとって最初の電子工学との出会いになる。ジョブズはこのキットについて「身の回りのものは、自分の手で作れるのだと教えてくれた」と語っている。
平凡な子ではなかった、しかし怪物でもなかった
少年期のジョブズを一言でまとめるなら、「退屈に耐えられない子」だったというのが近い。退屈に耐えるくらいなら、教室にヘビを放つほうを選ぶ子どもだった。友人のリックと共に、教師の椅子の下で発火物を仕掛けるなど、いたずらを重ねる。3年生までに何度も家に帰された。両親は学校のやり方にも問題があると考え、退屈な暗記を強いられることへのジョブズの不満にも理解を示していた。両親は、厳しく罰しなかった。
転機になったのは、4年生で担任になったミセス・ヒルという教師との出会いだった。学校は2学年の飛び級を勧めたが、両親は1学年分だけを認めた。
その後、7年生になったジョブズは中学でいじめを受け、登校を拒否するようになる。両親はより良い学校区を求めて転居を決めた。
ホームステッド高校時代の通知表は、4.0満点中2.65だった。BとCが中心で、神童エピソードを期待して見ると拍子抜けするくらい普通、というか普通以下の数字だ。しかもこれは伝説の類ではなく、大統領輸出評議会への任命が検討された際のFBI身辺調査ファイルに残された、公式の記録である。世界を変えることになる少年の成績表は、どこにでもいる退屈な生徒のものだった。
「彼女がいなければ刑務所に行っていたと確信している」
4年生の担任ミセス・ヒルについて(BBC Science Focus)
中退、書道、そして禅
ジョブズが入学したのは、オレゴン州のリード大学だった。専攻は英語。だが1年生の必修科目は関心と一致せず、そのうえ養父母のわずかな貯金が学費に消えていく現実に耐えられなかった。ジョブズは入学からほどなく中退を決める。中退後も18か月間キャンパスに居座り、興味の赴くままに講義だけを聴講し続けた。のちにジョブズは、当時をこう表現している。「点は、振り返って初めてつながる」。
聴講した講義の中で特に印象に残ったのが、元修道士だったロバート・パラディーノ教授によるカリグラフィーだった。ジョブズは後年、セリフ体とサンセリフ体の違いや文字の組み合わせによる字間の変化には、理屈では説明しきれない芸術的な繊細さがあったと振り返っている。中退してカリグラフィーの講義に潜り込むことは、就職には何の役にも立たなそうな寄り道に見えた。当時はこの知識が何かの役に立つとは考えていなかった。
自分自身を探し求めていた青年期のジョブズは、カリフォルニア州ロスアルトスにある禅センターに通うようになる。指導していたのは、新潟県出身の曹洞宗の僧侶、乙川弘文だった。ジョブズは乙川を深く敬愛し、のちにNeXTを設立した際には「精神的顧問」として招いている。乙川はジョブズの結婚式にも立ち会っている。禅への傾倒は一時、永平寺での出家まで考えるほどだったとも伝えられている。
「10年後、最初のMacintoshを設計していたとき、すべてがよみがえってきた」
リード大学のカリグラフィー講義について(Reed Magazine 2011年追悼記事より)
ガレージから、そして追放
ジョブズがまだ十代のころ、彼はスティーブ・ウォズニアックと出会う。二人が最初に組んで作ったのは、コンピュータではなかった。電話網に不正アクセスする「ブルーボックス」という装置だ。ジョブズは後年「ブルーボックスがなければアップルは存在しなかった」と振り返っている。
ウォズニアックが設計した試作機を、二人はメディアではなく、まず自作コンピュータ愛好家の集まり「ホームブルー・コンピュータ・クラブ」の仲間に見せた。この披露をきっかけに、地元の小売店主から50台の完成品注文が入った。元手を工面するため、ジョブズは愛用のワーゲンを、ウォズニアックは手持ちの電卓を、それぞれ手放している。この注文が、趣味の集まりを商売に変える最初のきっかけになった。
会社が軌道に乗ったあと、ジョブズは当時ペプシコ会長だったジョン・スカリーに、アップルのCEO就任を持ちかける。ニューヨークの夜景を見下ろしながら、ジョブズはこう迫った。
やがてジョブズの強烈な個性は社内の衝突を招き、1985年、ジョブズは自分が創業した会社を追われる。かつて自らアップルに招き入れた、その相手との対立の末の退場だった。
「このまま一生、砂糖水を売り続けたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいのか」
ペプシコ会長ジョン・スカリーを口説いたときの言葉(Forbes)
荒野の10年
アップルを去ったジョブズは、その年のうちにNeXTを設立し、UNIXベースのワークステーションの開発に取り組んだ。独自のオペレーティングシステムと専用ハードウェアを両方自社で抱える、というやり方をジョブズはここで貫いている。
翌年には、のちにピクサーとなる企業を買収した。当時これは、パソコン事業の第一線から外れた回り道に見えたはずだ。買収した時点のジョブズに、この会社が長編アニメーションで世界を驚かせることになるという確信があったわけではない。やがてピクサーは、コンピュータグラフィックスだけで作られた長編映画『トイ・ストーリー』を世に送り出し、興行的にも大きな成功を収める。
経営に行き詰まっていたアップルは、ジョブズが去ったあとに作った会社を買い取ることになる。かつて自分を追放した会社に、ジョブズは今度はその会社の側から呼び戻される形で戻ることになった。
のちにジョブズは、当時は気づかなかったが、アップルを追われたことは自分の人生に起こりえた最良の出来事だったと振り返っている。回り道は、回り道で終わらなかった。
帰還、そして黄金期
1997年、アップルに戻ったジョブズは経営の実権を握った。当時のアップルは、似たようなMacintoshだけで12種類以上を並行生産していた。ジョブズは幹部に「どの製品を友人に勧めるか」と尋ね、明確な答えが返らないことに危機感を持った。製品数を70%削減し、残す機種を「プロ向け・一般向け」「デスクトップ・ポータブル」の4つの枠に絞った。赤字続きだった会社は、この整理の翌年度に黒字へ転じた(3億900万ドル)。
絞り込んだ4機種のひとつが、iMacだった。半透明の筐体は、ブルーベリーやグレープといった名前の5色で展開された。ジョブズはその狙いを「思わず舐めたくなる色にしたかった」と語っている。復帰後のジョブズが送り出した最初の新製品であり、倒産寸前まで追い込まれていたアップルの復活を象徴する一台になった。
次に出したのが、携帯音楽プレーヤーのiPodだった。謳い文句は「1,000曲をポケットに」。ジョブズは「音楽の聴き方はもう二度と同じではない」と自ら製品を評した。その次が、ボタンを捨てて指だけで操作する携帯電話、iPhoneだった。ジョブズは「マウス以来もっとも革命的なユーザーインターフェース」だと自負している。さらにタブレット型のiPadが加わり、アプリやコンテンツともっと親密に付き合える新しいデバイスの一群を生み出したと語った。
この間、ジョブズは静かに病と向き合っていた。この製品群を世に出していく途中で、すい臓に腫瘍が見つかっていた。診断は当初、外にも社内にも明かされていない。およそ1年後、ジョブズは社員向けのメールで、診断と手術の成功を初めて伝えた。
2011年、ジョブズは56歳でこの世を去った。アップルの取締役会は「世界はスティーブのおかげで計り知れないほど良くなった」という声明を出し、彼の才能とエネルギーへの感謝を記している。
何を目指していたのか
2010年、iPadの発表イベントでジョブズは「技術」と「リベラルアーツ」と書かれた2枚の道路標識を映し出した。アップルの目指す場所を「テクノロジーとリベラルアーツの交差点」だと述べ、技術力の高さだけでなく使いやすさや楽しさを兼ね備え、ユーザーの側に製品を合わせる姿勢を大切にしてきたと説明している。
技術そのものより、それを使う人間の経験を重視したジョブズは、1995年のインタビューでこう打ち明けている。「20代のうちは、技術さえあれば世の中の課題の大半は片づくと信じていた。だが実際には、そう単純ではなかった」。
同じ姿勢は、1997年の社内スピーチにも表れている。ジョブズはマーケティングの本質は数値や仕様の比較ではなく企業が抱く価値観にあると説明した。「情熱を持った人たちが世界をより良い方向へ変えられる——そう信じることこそ、アップルの核にある価値観だ」。
ジョブズにアップルへ誘われたジョン・スカリーは後年、当時のジョブズについてこう振り返っている。「彼は宇宙に凹みをつけるのに忙しすぎた」。スカリーが語った「宇宙に凹みをつける」という一言は、単に会社を大きくすることではなく、自分たちの仕事が世界の形そのものを変えるという、ジョブズの野心をよく表している。
あの発想力と行動力は、どこから来たのか
1997年、ジョブズは12種類以上あった製品ラインを4つに絞った。この判断がどこから来たのかを、本人が説明した記録はない。ただしそれ以前の経験のうちいくつかについては、ジョブズ自身が後から意味を語り直している。本人が語ったものと、語っていないものを分けて並べてみる。
本人がはっきり語ったのは、手を動かす感覚の出どころだった。自宅に作業台を用意して工具を握らせた養父について、ジョブズは「物の作り方、分解の仕方、組み立て直し方を教えてくれた」と振り返っている。近所のエンジニアが持っていた電子工作キットについても、「身の回りのものは、自分の手で作れるのだと教えてくれた」と語った。製品を、分解して中身を確かめられるものとして見る目。その出どころを、本人は幼少期の家庭に置いている。
もうひとつ本人が語ったのが、カリグラフィーだった。中退した大学に潜り込んで聴いた、就職には何の役にも立たなそうな講義である。当時この知識が役に立つとは考えていなかったとジョブズ自身も振り返っているが、10年後、最初のMacintoshを設計していたとき「すべてがよみがえってきた」と語っている。寄り道が10年後に製品の形になったという筋道は、他人による解釈ではなく本人の証言だ。
一方、乙川弘文のもとで通った禅と、製品を削る判断とを結ぶ言葉を、ジョブズは残していない。ここから先は記事の側の見立てになる。余分をそぎ落とすことを美徳とする禅の作法と、12種類以上の製品ラインを4つまで削った判断は、外から眺めると形がよく似ている。ただしこの二つを線でつないでいるのは、後ろから見ている私たちの方だ。
本人の証言と見立てを取り除いても、残る事実がある。1997年に生き残った製品は、プロ向けデスクトップのPower Macintosh G3、プロ向け携帯機のPowerBook G3、一般向けデスクトップのiMac、一般向け携帯機のiBook。この4つだけだった。役に立たない講義を捨てなかった青年と、売り物を4つまで捨てた経営者。その間には、25年ある。
もし、2026年も生きていたら
ここから先は史実ではない。ここまで見てきた本人の発言と行動の型から、ひとつの想像をしてみる。
彼ならまず、何を作るかより先に、何を作らないかを決めたはずだ。アップルへ戻ったジョブズが最初にやったのは、新製品を出すことではなく、12種類以上あった製品を4つまで削ることだった。減らした数は7割にのぼる。技術が新しく手に入るたびに機能を足していくやり方を、彼は生涯ほとんど選んでいない。この型をそのまま当てはめるなら、既存の製品にAIとの対話欄を一つ増やす、という道を彼が選んだ可能性は低い。
作るものの中身についても、輪郭くらいは推し量れる。彼はハードウェアとソフトウェアを同じ会社で作ることに執着し続けた。NeXTでは独自のOSと専用のハードを両方抱え、アップルに戻ってからは外部への依存を一段ずつ減らし、最後は自社設計の半導体にたどり着いている。もう一つ、彼が繰り返し削ってきたのは、人と機械のあいだにある手数だった。マウスと画面はコマンドの打ち込みを不要にし、指で触る操作は物理キーボードとペンを不要にした。減らしてきたものの向きだけを見れば、次に消える候補は察しがつく。
彼はiPadの発表会で「技術」と「リベラルアーツ」と書かれた二枚の道路標識を並べ、アップルが立っているのはその交差点だと語った。あるインタビューでは、20代の頃は技術さえあれば世の中の問題の大半が片づくと信じていたが実際はそう単純ではなかった、とも打ち明けている。だから性能の数字がどれだけ伸びても、彼の判断基準は最後まで「使っていて気持ちがいいか」の側にあったはずだ。
——ここまでは、言える。だが、ここから先で筆が止まる。
いま並べたのは、削る、自分たちで作る、手数を減らす、という三つの方向にすぎない。方向を言い当てることと、製品を一つ思いつくことのあいだには、途方もない距離がある。画面をなくす方がいいらしい、というところまでは誰でもたどり着ける。そのうえで、手のひらに収まる四角い板からボタンを全部取り去るという答えを、2007年より前に出せた人間はいなかった。出てきたあとでは、それはあまりにも当たり前の形に見える。当たり前に見えるのは、いつも出てきたあとだけだ。
彼が2026年に何を作っていたのか、この記事は書けない。書けてしまったとしたら、そのアイデアはもう、天才と呼ばれた人間の仕事ではないのだろう。凡人に予測がついてしまう発想を、私たちは天才とは呼ばないからだ。
ただ一つだけ、確かなことがある。彼が作ったものを見てから「そうか、これが欲しかったのか」と気づかされる経験を、私たちは2011年以降、一度もしていない。
「ハングリーであれ。愚か者であれ」
Stay hungry, stay foolish. — 2005年 スタンフォード大学卒業式スピーチ 結びの言葉
