薬を売るには、まず言葉が要る。内藤豊次は「高血圧」という言葉を自分で考え出し、そこから始まった会社は、一度開発を止めた認知症薬を、世界が認める治療薬として市場に送り出した。
創業から現在へ — ストーリー
10年で、売上は約1.5倍
(手元に残った利益)
事業の構造 — 何で稼いでいるか
投資指標
取得中…
投資家目線のワンポイント
アリセプトの特許切れも、アデュカヌマブの中止も、この会社の業績は1つの薬の成否で大きく動いてきた。レカネマブの世界での広がり方を見ると、次の一手が見えてくる。
「高血圧」——内藤豊次が創った言葉
大阪の貝ボタン工場で働き始めた内藤豊次は、兵役で衛生兵を命じられたことをきっかけに薬業界へ進み、神戸の商会で輸入薬の翻訳と営業を担当した。第一次世界大戦で市場が混乱すると東京へ移り、戦後の不況のなかで新薬の宣伝文句を考え抜く。当時はまだ一般的でなかった病名を、自分の手で作ることにした。豊次は次のように記している。「いろいろ考え抜いて決めたのが『高血圧』の3文字である。今でこそ『高血圧』は普通用語であるが、当時このことばを創製するには非常な勇気を要した。」
日本初のビタミンE——輸入薬に頼らず、自分たちで作った
1930年代、日本の製薬業界が外国製品に頼りきっていることに内藤豊次は危機感を抱いていた。桜ヶ岡研究所を設立し、ビタミンEの研究を任せる。1938年、小麦胚芽油から抽出した日本で初めてのビタミンE製剤『ユベラ』が世に出た。
「公園工場」——欧米視察で見た構想を、川島に持ち帰った
1950年代なかば、内藤豊次は月商を3倍にする「三六計画」を掲げ、経営基盤の立て直しを進めていた。埼玉県本庄工場は手狭になり、新しい用地を探すことになる。豊次は自ら欧米視察に出かけ、米国の「公園工場(Industrial Park)」という発想に感銘を受けた。この構想を実現できる土地として、岐阜県川島を選んだ。1966年、川島工場が完成した。
私財を投じた財団——研究者を育てる側にまわった
1960年代の終わり、内藤豊次は日本の製薬業界が欧米の模倣に甘んじている状況を憂えていた。基礎研究を続ける科学者たちを支える仕組みが乏しいなか、豊次は会社の利益からではなく、自分の財産を拠出して「内藤記念科学振興財団」を設立した。同じ時期、台湾・タイ・インドネシアへ現地法人を設立し、通商産業大臣から輸出貢献企業としての表彰も受けている。
2本のバトン——「変れますか」と問われた
1988年、会長となる内藤祐次から新社長の内藤晴夫へ、2本のバトンが手渡された。1本には前年度の実績が書かれ、もう1本は空白のままだった。新社長は「世の中変ります。あなたは変れますか」というメッセージで社員一人ひとりの革新を促す。「製薬企業は医師を顧客と見てきたが、真の顧客は患者」という考えのもと、企業理念ヒューマン・ヘルスケア(hhc)が制定された。8年後、内藤晴夫は経営学者・野中郁次郎の講演を聞き、「雷に打たれたと思うほど」の衝撃を受けたという。
想定の3倍——会社は、募集の締切を早めた
エーザイは45歳以上・勤続5年以上の社員を対象に希望退職者を募った。当初の計画は約100人だったが、実際に応募したのは300人、計画の3倍にのぼった。想定を超える応募に、会社は募集の締め切りを予定より早めている。
「2度も死ぬ思いをした」——中止した薬が半年で戻った
2019年、エーザイとバイオジェンは、アルツハイマー病治療薬アデュカヌマブの臨床試験を中止すると発表した。独立データモニタリングコミッティによる解析で、主要な評価項目を達成できる可能性が低いと判断されたためだった。ところが、半年ほど経ったころ、両社は一転して承認申請をめざす方針を発表する。株価は2日連続でストップ高株価が1日に値上がりできる上限に達すること。となった。エーザイCEOの内藤晴夫は、この急展開についてこう語っている。「中止になったときと今回とで、驚きで2度も死ぬ思いをした」。「一度中止になった開発品目が申請に至るというのは、異例中の異例の出来事」だと、業界関係者も驚いたという。
